2011年3月27日日曜日

本能寺の変発生時、数の上では秀吉の天下は決まっていた。


浅井家3女のドラマは羽柴秀吉が柴田勝家との賎ヶ嶽決戦に勝利して、いよいよ名目上の天下人織田三法師から天下を簒奪する手順に入った。


この数年前、浅井家を滅ぼした後、近江の美田と歌われた湖東旧浅井長政の所領、およそ20万石を信長にもらったのである。

ほぼ織田家の出頭人明智光秀とバランスよろしく西坂本城に対比して同じような20万石だが、浅井家の所領のほうが平野が集中しており効率がよいのではと考えられる。なんといっても斉藤道三がうらやんだ近江の美田は坂本城周辺でなく湖東の小谷城、長浜城周辺でした。

2年ほど旧浅井領を慰撫して戦乱の後を鎮めて人心を掌握の後、8000人の兵を徴収して西国兵庫県、当時赤松氏が納めていた播磨の国を征伐に向かったのです。赤松氏の支族別所氏が篭もる堅城三木城を3年近い兵糧攻めで播磨の国を攻略して本拠を中国の雄、毛利氏に近い姫路城に置いたのです。播磨国は近畿の生産力が高い上国で15000人程の動員能力があるでしょう。その後名門山名氏が篭る因幡の国、鳥取城も2年かけて兵糧攻めにして秀吉の領地となった。鳥取県の東半分因幡は動員能力は5000人でしょうか。この時点で秀吉の動員兵力は28000人ほどでしょうか。

福井県、石川県の一部、富山県を領する柴田勝家の動員兵力25000人を少し上回っただけです。柴田勝家には越中富山で境界を接する戦国最強と噂される上杉景勝と戦闘中で全兵力を上方に割けないという弱みがあった。賎ヶ嶽会戦にも20000人で参加しただけでした。

一方秀吉の対毛利方には播磨の西、備前、備中の半分を征服した宇喜多直家がありました。宇喜多直家の所領、備前、備中の半分は当時日本一豊穣の土地です。宇喜多直家は吉井川の下流部の大穀倉平野で戦国大名として身を起こしたのです。

直家はお隣さんの大名を滅ぼすに当り、宣戦を布告して平原で決戦に及ぶというような正々堂々としたものでなかった。絶えずお世辞、贈り物をして油断させ宴会に誘い酔った帰り道、闇夜に弓矢の名手を大勢を伏せた襲撃で城主をあの世に送り
当主がいなくなった城を攻めるという一番確実で安全な方法でした。招いた宴会で毒を盛ったという噂もあります。

多分直家の動員兵力は岡山の半分強の領地でも日本一豊穣の土地らしく20000人ほどでしょう。しかし宇喜多直家には大きな弱みがありました。当時不治の大病に取り付かれており、二三年の命と宣告されていたのです。
溺愛していた一粒種の嫡男は10歳にも満たず自分が墓に入れば、家来たちがよってたかって嫡男秀家を滅ぼしてしまうと考えていたのです。全員自分の前では忠臣面をしているが、自分がいなくなれば幼君宇喜多秀家の直轄領を取り上げてしまうと言う心配です。自分の今までの行いが悪いという罪を背負っていたのです。かくいう秀吉も信長の直孫から天下を奪ったために豊臣秀頼の行く末をとても心配したらしい。安心して往生できなかったのです。因果応報です。直家はせめて数年、当主の地位を維持して成人するまで領地を守ってやりたいとそれだけが直家の願いだった。

成人した後の失敗で宇喜多家を滅ぼしてしまうのは戦国の習いであの世からも諦めがつくが、世の中の理屈も分からない少年時に滅ぼされるのはあまりにも不憫という理屈でしょう。
裏切り騙しでのし上がった男だけに家来もそうだという考えに取り付かれたのです。秀吉の調略が直家に伸びてきたときのやり取りやその戦いぶりから、後の豊臣秀吉こそが溺愛していた一粒種の嫡男を保護してもらい託せる男と睨んだのです。秀吉なら天下人になるとまでは思わなかったでしょうが、戦国乱世を生き抜く器量と
見込みを付けたのです。それでも全面的に信用できないが絶対安全に秀家を保護してもらえる策を考えました。

宇喜多直家は頭がいいのです。次回は宇喜多直家の戦略考えを書きます。

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