2017年12月3日日曜日

アンナ叔母は実父の妹で、かつてお会いした仙人お爺さんがおっしゃった「この家から出た人」です。

アンナ叔母と書いていますがお名前は当然日本人によくある和名です。アンナ叔母は一度結婚の経験がありそのご不縁になり一度実家に戻ったらしい。離婚の経緯と理由などは実母を含んだ家族のタブーのようで何も聞いていません。何年か我が実家の農作業を手伝っていたらしい。私が物心ついた頃はアンナ叔母は実家にはいなかったようです。それから祖母が伝手をたぐって実家の最寄りの駅から10前後向こうの駅の駅前にある老舗旅館で仲居として就職していました。上司である女将さん達からまじめな仕事ぶりを認められ何不自由ない幸福な生活を送っていたそうです。当然日曜祝日は休みか代休をもらったそうです。お客はサラリーマンが多く祝日はお客がなかったそうです。辛い農作業に比べれば屋内でする仲居の仕事など農作業で重い米を担ぐか、仲居としてお客の布団をしまうような違いです。体力的には楽な仕事でこんな給料をもらっていいのか、許されるのかと私も初任給をもらった時思いました。当時その老舗旅館の近くに石油コンビナートが操業を開始して周囲は好景気に沸いていました。その結果客足も増えアンナ叔母の雇用が出来たのです。アンナ叔母さんの性に合っていた仲居の仕事をつづけた数年後強引なお話がアンナ叔母さんを襲ったのです。もうだいぶん前からアンナ叔母のいとこ私の祖母の姪が夫婦で創業者となって繊維工場を大都会の郊外で経営していました。社員は多い時で30人以上の堂々たる中小企業です。工場や敷地を創業社長が所有して会社から賃料と夫婦で社長専務などの給料をもらうお金持ちです。そのアンナ叔母の従妹社長夫人が我が祖母に何度も面会して老舗旅館の仲居を辞めてアンナ叔母を繊維工場で長時間残業などが発生したときに使う寮の賄い婦、寮長として雇いたいとしつこくお願いに来たらしい。社長夫人の○○し文句、決め台詞はアンナ叔母はこれから社長の家族として臨終まで給料を出し面倒を見るという申し出でした。普通なら相手にしない信じられないお話ですが、祖母の姪、血縁関係が祖母の判断を狂わせその言葉を信じたのです。以降アンナ叔母は老後のためと言われてそれを信じてほとんど休みなくその繊維工場の社員に尽くしました。寮には独身社員もいて日曜祝日も食事の用意は必要だからです。祖父や祖母の法要で帰ってきても実家にいるのは1日だけでした。多くの親族がもっと休めと言っても耳を貸しませんでした。アンナ叔母にまかないの仕事をしてもらうと食費などのお金を預けなければなりません。血縁者が最高の人材との言い分でした。アンナ叔母は基本無口でした。私が10歳前後の頃法事で帰って来たアンナ叔母がいつになくじょう舌で話題が切れ間なく続いたことがありました。そして夕方アンナ叔母を迎えに来たタクシーが来る時刻が近づくと、アンナ叔母は仏壇の扉を全開にして母に「義姉さん来てください。立ち会って下さい」母が来て私を高い椅子に座らせて「○○さん。私が今の場所を追い出されたりして高齢で働けなくなった場合、私の面倒をみてくれますか?」最初言ってる意味が分かりませんでしたがようやく理解してアンナ叔母の真剣な目をみてその時の自分の感情を言いました。「叔母さん一緒に暮らしましょう」大変喜んでくれましたが、今から思うにアンナ叔母の従妹社長夫人と10年以上の共同生活で何か不誠実なものを感じて信を置けない、最悪のケースを考えて嘘でもよいから血のつながった小学低学年の甥の保証の言葉でさえほしかったのでしょう。アンナ叔母が気の毒でなりません。今回はここまでにします。

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