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2017年12月3日日曜日

アンナ叔母は実父の妹で、かつてお会いした仙人お爺さんがおっしゃった「この家から出た人」です。

アンナ叔母と書いていますがお名前は当然日本人によくある和名です。アンナ叔母は一度結婚の経験がありそのご不縁になり一度実家に戻ったらしい。離婚の経緯と理由などは実母を含んだ家族のタブーのようで何も聞いていません。何年か我が実家の農作業を手伝っていたらしい。私が物心ついた頃はアンナ叔母は実家にはいなかったようです。それから祖母が伝手をたぐって実家の最寄りの駅から10前後向こうの駅の駅前にある老舗旅館で仲居として就職していました。上司である女将さん達からまじめな仕事ぶりを認められ何不自由ない幸福な生活を送っていたそうです。当然日曜祝日は休みか代休をもらったそうです。お客はサラリーマンが多く祝日はお客がなかったそうです。辛い農作業に比べれば屋内でする仲居の仕事など農作業で重い米を担ぐか、仲居としてお客の布団をしまうような違いです。体力的には楽な仕事でこんな給料をもらっていいのか、許されるのかと私も初任給をもらった時思いました。当時その老舗旅館の近くに石油コンビナートが操業を開始して周囲は好景気に沸いていました。その結果客足も増えアンナ叔母の雇用が出来たのです。アンナ叔母さんの性に合っていた仲居の仕事をつづけた数年後強引なお話がアンナ叔母さんを襲ったのです。もうだいぶん前からアンナ叔母のいとこ私の祖母の姪が夫婦で創業者となって繊維工場を大都会の郊外で経営していました。社員は多い時で30人以上の堂々たる中小企業です。工場や敷地を創業社長が所有して会社から賃料と夫婦で社長専務などの給料をもらうお金持ちです。そのアンナ叔母の従妹社長夫人が我が祖母に何度も面会して老舗旅館の仲居を辞めてアンナ叔母を繊維工場で長時間残業などが発生したときに使う寮の賄い婦、寮長として雇いたいとしつこくお願いに来たらしい。社長夫人の○○し文句、決め台詞はアンナ叔母はこれから社長の家族として臨終まで給料を出し面倒を見るという申し出でした。普通なら相手にしない信じられないお話ですが、祖母の姪、血縁関係が祖母の判断を狂わせその言葉を信じたのです。以降アンナ叔母は老後のためと言われてそれを信じてほとんど休みなくその繊維工場の社員に尽くしました。寮には独身社員もいて日曜祝日も食事の用意は必要だからです。祖父や祖母の法要で帰ってきても実家にいるのは1日だけでした。多くの親族がもっと休めと言っても耳を貸しませんでした。アンナ叔母にまかないの仕事をしてもらうと食費などのお金を預けなければなりません。血縁者が最高の人材との言い分でした。アンナ叔母は基本無口でした。私が10歳前後の頃法事で帰って来たアンナ叔母がいつになくじょう舌で話題が切れ間なく続いたことがありました。そして夕方アンナ叔母を迎えに来たタクシーが来る時刻が近づくと、アンナ叔母は仏壇の扉を全開にして母に「義姉さん来てください。立ち会って下さい」母が来て私を高い椅子に座らせて「○○さん。私が今の場所を追い出されたりして高齢で働けなくなった場合、私の面倒をみてくれますか?」最初言ってる意味が分かりませんでしたがようやく理解してアンナ叔母の真剣な目をみてその時の自分の感情を言いました。「叔母さん一緒に暮らしましょう」大変喜んでくれましたが、今から思うにアンナ叔母の従妹社長夫人と10年以上の共同生活で何か不誠実なものを感じて信を置けない、最悪のケースを考えて嘘でもよいから血のつながった小学低学年の甥の保証の言葉でさえほしかったのでしょう。アンナ叔母が気の毒でなりません。今回はここまでにします。

2017年10月29日日曜日

舌癌は完治と見なすという結果になりました。

2017年08月15日大学病院で頭頚部CTスキャンを実施しました。そして現在のお若い主治医のお望み通りレントゲンなどの画像専門医、画像診断医による今年2月のCTスキャン画像と8月分との比較突合をしてもらったそうです。因みに画像診断医による診断を受けたのは初めての経験です。転勤した執刀医のc先生はすべてご自分で診断なさっていました。2017年08月23日再度仕事を休み大学病院で、画像診断医が出した2月のCT画像と突合した結果の診断結果を聞きに行きました。もし頭頚部に癌再発していれば半年前のCT画像と半年後の8月の画像比較で不一致が出るから舌癌再発転移の確認ができるという理屈です。結果は〇で完全にCT画像が一致して再発なしとのご診断でした。思えば5年前、開業医は神技を使ったなどの助教授発言、神っている白昼夢、神がかりのような癌の発見、確定診断などありまして結果としては今まで命が助かりました。術後5年再発転移なしを迎えたのです。
 そして舌癌は完治とみなすというお墨付きを頂いたのです。先生曰く5年再発なければ90%以上の確率で再発しないのは統計上の事実ですが絶対とは言えない。今後体調で不審な点があれば遠慮なく来診して下さい。もうすぐ11月ですが癌再発なしは8月23日までは確かかもしれませんが、8月23日から今日までに気が付かない微小の癌が育っているのかもしれませんがキリがないので完治と見做すにして以降の予約はなくもう大学病院の耳鼻科を受診しなくてもよいわけですが、あとは厳しい自己責任による自己管理でしょうか。遠慮なく来診と言って下さいましたが今度は予約ないので初診5000円必要です。
舌癌告知時にお会いしたご先祖様の予言通りになったので、舌癌告知にご先祖様に教えてもらった癌は大したことないという白昼夢は、治りたいという強い望みからくる根拠のない自作自演の幻覚なのではなく、まさにご先祖様のお告げだったということでしょうか。
 完治と言われても10%の再発率があるし今も舌癌手術時に飛び散った癌幹細胞が私の免疫が弱るのを待っている状態で、おとなしく分裂しないで免疫に見つからないように息を潜めているのかもしれません。完治と言っても当然、舌癌罹患経験がない人より再発発症のリスクが高いわけですので私にとっては、舌癌は注意すべき生涯の敵です。

2017年7月9日日曜日

朝ドラヒロイン、旧滋賀アナウンサーもお目にかかったのは2017年4月です。心霊体験、白昼夢でお美しいご先祖様にお会いしたのは2012年2月です。ズレがあります

茨城県朝ドラヒロイン、旧滋賀アナウンサーもお見かけしたのは今年の4月なのに2012年当時からお二人をテレビで見たことがあるのかとご不審に思われる方がいらっしゃるかもしれない。実際読者におかしいといわれました。
2012年3月舌癌宣告を受け意識が遠のく中、目の前の25歳前後の女性に気が付いた。私のご先祖様は引いていたアゴをゆっくり上げて二人の視線が水平にばっちり合いました。こちらは誰なのか思い出そうとして必死で目の周り中心に見つめました。両目周辺だけで鼻や口、眉お顔の形までチェックできない時点で見知らない女性だが目と目の周辺は誰に似ているか考えると、演歌歌手だった不二恵子さんのお嬢さん光さんの目に少し似ているようでした。彼女のCD1枚だけ買っていて時々歌詞や彼女の写真を目にするから光さんの目を思い出したのでしょう。この写真が光さんの目だけを切り出した写真です。肖像権の問題もあるでしょうが、お金を払って購入したものでお顔の一部をブログに利用させてもらっても大丈夫でしょう。あくまでも目的が白昼夢でお会いしたご先祖様のイメージを説明したいだけです。人気芸能人を利用してクリックを増やす意図はありません。お名前から検索してもヒットしないようにお名前を変えています。彼女の実名を入れてお名前を利用して読者を増やすような意図がないのは明白です。
そんなわけでご先祖様にお会いして似た人を探して見つけたのがこの写真でした。しかし25歳前後のご先祖様のお顔全体はこの写真の主のお顔とは似て非なるお顔でした。25歳前後の私のご先祖様のほうが繊細なお顔だった気がします。共通点は目の周辺の雰囲気とどちらも童顔ということでしょうか。
舌癌告知を受けてから5年以上になり、茨城県朝ドラヒロイン、旧滋賀アナウンサーに似ているといっても記憶的に絶対の自信はありません。ご先祖様にお会いしたのも癌告知を受けたのと一ヶ月以上経験した舌の痛みで食事が減り精神状態及び精神が陰の極みと言った状態でした。そんな状態で見た白昼夢の思い出など頼りなくおぼろげなのは致し方ないでっよう。しかし茨城県朝ドラヒロイン、旧滋賀アナウンサー、不二恵子さんのお嬢さん光さん、心霊体験でお会いした私のご先祖の4人に共通するのは色白で童顔という点です。童顔の強さでは不二恵子さんのお嬢さん光さんが最強でしょう。

2017年6月4日日曜日

心霊体験を詳しく書きます。舌癌告知時、何秒か意識を失ってお美しいご先祖様にお会いしたのです。

2012年2月13日大学病院の2人の耳鼻科の先生の診察を受けました。一人目の先生にまぎれもない舌癌と言われ、二人目の主治医様の部屋に入り悪性の腫瘍と宣告を受けたとき、太い青竹の棒で頭を殴られたような衝撃を感じました。
よく臨死体験での体外離脱などで空中から病院のベットに横たわっている自分の肉体を見た。自分の周囲を家族などが囲んでいるのが見えたとのTV番組がありました。私も近いものを体験しました。数メートル四方の腰高程度の低い四角い黒い塀があり、黒い塀の中で一人の男性が両手でムンクの絵のように頭を抱え込んでいるのです。普段と違って梯子の上に立ったように上から下を見下ろしている視点でした。これが幽体離脱、体外離脱などと言われている上からの視界だったかと今振り返っての記憶になっています。その時黒い塀はなんとなくこの世とあの世の結界ととらえていました。ムンクの絵「叫び」のように頭を抱えている人は舌癌告知を受けた自分だとはなんとなくわかりました。それから数メートル四方の黒い塀伝いに小さい子供用の雀の巣のようなカツラがこちらをめがけて動いてくるのです。どうしたと見つめると二歩下がって止まり、しばらくすると三歩近づくというようなジグザグに近づいてきたのです。その時はもう視点が地面近くに戻っていて体外離脱は終わっていました。その雀の巣のようなぼさぼさのカツラも顔が見えなく3歳で肺炎など胸の病で夭折なさった明治20年頃のご先祖様とわかりました。こうした情報は霊視できるとかいう占い師に聞きました。通常より少し高い数千円の料金で霊視してくれます。3歳で亡くなった明治20年頃の女の子の記述は実家の過去帳に名前とともにありました。霊視できるとかいう占い師が観てくれた名前と過去帳の名前が一致したのでその占い師を信じています。
カツラに気を取られ気が付くと25歳前後のうら若い下の写真のような髪型の女性が顎を鎖骨 胸骨にくっつけるようにアゴを大きく引いて上目遣いに目の前、手が届く距離に座っていました。私はお目にかかった覚えがないのですが相手は私を知っているのか少しだけ含み笑いをしていました。それから首を動かさず瞳だけを左右に廻して私の左右を見たのです。まるで女子中学生のようなしぐさでした。それから少しづつ胸骨にくっついていたような顎をゆっくりと上げていって二人の視線が水平にばっちり合いました。こちらは誰なのか思い出そうとして必死で目の周り中心に見つめましたが全く記憶にない女性でした。
誰でもご存知でしょうが、写真は朝ドラのヒロイン梨村佳澄さんです。舌癌告知時にお会いした女性はこの朝ドラのヒロインに似ています。特に髪型など頭部の形がそっくりです。写真では前髪は視界の妨げにならないよう前髪をおかっぱ風に切っていますが、舌癌告知時にお会いした女性は前髪がこの倍ほど長かったです。前髪の曲げやカールもなかったです。4月から始まった茨木県北部を舞台とした朝ドラですが、茨木県北部時代、ヒロインが高校生時代のほうが向島電機の工場時代よりよくご先祖様の雰囲気を出しています。家族と共同でした稲刈り作業の風景、野菜畑の収穫、耕作など農作業を通じた土臭いイメージを醸し出した名演技でした。凛とした女優というより所作もゆっくりとした童顔の田舎くさい感じで親しみが持てるような演技が素晴らしかったです。東京のトランジスタラジオ組立工になってからは垢抜けして少し我がご先祖様と違うかなと思います。それに彼女はほお骨が前に出ておりお顔がなんとなくのっぺりとしていますが、私のご先祖様はそれほど頬骨は出ていませんでした。それに梨村カスミさんは少し日焼けしているようですが、舌癌告知時に白昼夢でお会いした女性はシミもなく色がとても白かったです。霊視できるとかいう占い師によると、舌癌告知時にお会いした女性はまぎれもなく300年前の私のご先祖様だそうです。300年前の私のご先祖様は小さい子供が大好きで明治の初めに3歳で亡くなったオワキ様を膝に乗せたりして霊界を連れ歩いていらっしゃるとのことです。何とか48などアイドルというより、容姿は抜群で女優並みだそうです。子供の時から胸の病がありほとんど寝たきりで32歳でインフルエンダ併発などで酸欠で亡くなったそうです。呼吸が苦しく病気で寝たきりなので野良仕事もしないで日光に当たらなかったのでしょう。享年33なのに二十五六歳に見えたのは色白で童顔だからと思います。胸の病気は結核か父の死因、父の妹の死因であった間質性肺炎か詳しいことは判らないそうです。とにかくこの連続ドラマをビデオで撮りだめして毎日見ています。朝の連続ドラマを見るとご先祖様に会えるような気がして最近の楽しみです。更に言いますと朝ドラのヒロインと国営放送の女子アナで今年4月からブラタモリに出演している童顔の旧滋賀アナウンサーとミックスしたような容姿でした。色の白さと目の大きさは朝ドラのヒロインより目が小さい旧滋賀アナウンサーに似ています。どちらにせよ普通なら私など鼻にも引っ掛けられない高嶺の花のような美しい女性です。
アゴを引いて見上げる視線からアゴを上げて水平視線になって数秒見つめ合った後、突然横を向いたのです。二度とこちらを向くことはありませんでした。髪の毛を遠慮なく観察したのですがあれほど櫛目が鮮やかなのは初めてでした。彼女はどれほど何回髪に櫛を通したのか、どのように髪を梳けばああしたくっきりした櫛目になるのか考えてました。彼女は一言も発しませんでしたが、横を向いてから老人のような初老の男性の声が聞こえました。「お前癌だったのか可哀想にのう。でもたいしたことにならないから、もうそんなに気に病むな。」若い女性の声でなかったので、どこからと横を向いた彼女だけでなく全体を見ると彼女の頭頂部に隠れて額の上だけのチョンマゲが見えました。額から上だけでお顔は見えませんでした。その時両肩を両手でゆすられて「○○○さん。しっかりしてください。聞こえていますか。癌と言っているのですよ。」これで白黒の白昼夢から舌癌告知の現実に引き戻されました。
ところで霊視できると触れ込みの占い師に面会したのは、彼女がどうして横を向いたのか。そして自分の先祖なのか誰なのか。明治以降の実家の過去帳には20歳前後の女性の記録がないのに誰なのか。横を向いたのは自分は嫌われたのでしょうかと聞いてみると「守護霊が守る人を嫌うこともありますが、嫌っていれば白昼夢などで会うことはないです。まず出てこない。顔が見えないように横を向いたのは『まだ私がいるこちらに来てはいけない。戻りなさい。寿命でないのでしっかり生きなさい』という意思表示です。あなたは彼女だけでなく大勢のご先祖に好かれています。常時近くに大勢のご先祖様がいます。近くにいらっしゃるご先祖様は他の子孫係累よりあなたに供養してほしいご先祖様だそうです。それから手が届く距離で守護霊と会うのは危険です。両手で抱き付かれればあの世に連れていかれてしまいこの世に戻れなくなる危険があるそうです。横向いたのは大きな愛だそうです。」白昼夢の登場人物は目の前の若い女性、髪の毛だけが見えた3歳の女の子、チョンマゲだけが見えた初老の声と3人ですが、顔が見えたのは手が届く距離にいた朝ドラのヒロインに面影が似た女性だけでした。機会があればなぜ一人だけ顔が見えたのかこれも聞いてみたい。チョンマゲの人は当然江戸時代の人で隣県出身だが私のご先祖だそうです。
 ところで将来病気で苦しんで、これは死病で助からないと思った時、楽になる方法を思いつきました。これから一層先祖供養に励みいよいよの時、朝ドラのヒロインに似たご先祖様を呼び出します。地面に額をこすりつけてこれまでのお礼を言上して、病気が苦しいので連れて行って下さいとお願いします。あのようなご先祖様に抱き付かれてあの世に行けるなら人生の終わりとしては、大きな幸せかもしれない。

2017年5月14日日曜日

三人の敵その1_3(最初に私から仕事を取り上げた上司はうつ発病で出社拒否)

LAN工事のチームから外され備品固定資産の管理の仕事も取り上げられた結果、本当にすることもありませんでした。企画部に引き取ってもらうまでも実質無仕事状態は何年か経験しています。だから仕事がないのに仕事をしているふりをして毎日終業ベルを待つのはそれ自体それほど苦になりません。しかし1998年当時はその数年前と事情が大きく異なっていました。当時は風潮として終身雇用制度が崩壊して、中高年層のリストラ大流行、リストラの嵐でした。同僚の50歳越えの大先輩も人事から君の給料で有名大学卒の新人2人雇えると何度も言われたとのことでした。現在の担当が存続する限り同僚の居場所はありますが、組織再編などを口実にこのまま仕事がないといつ人材開発担当に追いやられる危機感をヒシヒシと切羽詰まるようでした。そこで二三年先退職に追い込まれた時のために人があまり身に付けていないスキルを身に付けようと考えました。具体的には中級レベルだったアクセスの開発能力を上げることです。ビジュアルベイシックVBAなどの付加価値を付けたアクセス技術を身に付ける目標が出来ました。例えば都道府県を選択するコンボボックスがあり愛知県を選択すると次の市町村コンボボックスでは名古屋市や安城市など愛知県に関係する市町村だけを選択投入できるようにするなどです。入力を楽にする機能としてよく使われます。例えば現在は廃刊になっていますが株の業界紙ごとに紙面のコラムのタイトルは違います。その都度手入力では情報入力が大変なので以下のようにマスコミごとに新聞に特化したコメント、コラムなどを過去入力したものに限って表示するようにしています。
こうしたACCESSの技術はこの当時身に付けました。そして会社を辞めざるを得なくなった時、再就職の武器にしようと決めました。とりあえず周囲の情報を片っ端からDB化しました。DB化とは表にしてアクセスにすることです。
アクセスのスキルアップに没頭して1年後2000年2月ごろ新しく赴任してきた人事権のある人からオラクルが入っているサーバが故障したとき修復する業務の担当が人材を募集してる。枠は一人だけで貴方を推薦するつもりだ。断らないでください。貴方にとってこれが最後のチャンスになるでしょう。ここに残っても2年ほどでスキル不足で行くところがなくなります(人材開発担当候補?)。と言われ最後のチャンスに賭けることにしました。サーバトラブルの技術を身に付ければ将来安泰だが出来なくとも故障の原因、状態を申告者から聞き出してて解析部門に回す業務、受付でもできれば生き残れますとのことだった。サーバトラブル解決専門の部門でサーバトラブル解決の技術者として認められた2001年ごろ、かつてのLAN工事の同僚、KさんからMさんの動向が伝わってきました。Mさんは大出世して籍はわが社ですがサラ金業者に何でもできるシステムエンジニアとしてオラクルがインソールされているサーバ保守の仕事を任されていたそうです。Mさんの給料は額面でも50万以内で手取りは何も変わりませんが、サーバ保守の仕事をしているサラ金業者から我が社に100万円ほどの人材派遣料をもらう契約で、部下を2人連れてサラ金業者に派遣していたとのことでした。サラ金業者にすればMさんに月額100万円を払ってもソフトウェア会社にAPの修正改良を依頼するよりもMさんにメンテしてもらったほうが安くつく勘定でした。差額の50万円以上は我が社に入りこのまま仕事を続けると大変な貢献になります。しかしMさんはサーバトラブルを解決した実績もなく、ましてそのサラ金業者が期待したAPの改修メンテ能力など皆無なのは私がよく存じています。DOS窓コマンドプロンプトからサーバやルータにPING試験する以上のスキルはないのです。何でもできるシステムエンジニアと推薦されたのが命取りとなったようです。スキルがないのに多くのAP改修要求を出されて何か月たっても解決してくれないのでサラ金業者が進捗会議でMさんを攻め立てたとのことでした。サラ金業者としては何でもできるシステムエンジニアとの触れ込みで我が社に毎月100万円もの賃金を払っているのだから当然です。Mさんはお客であるサラ金業者からの要求や知りえた情報を部下二人と共有せずに一人で解決策を探り仕事と問題、課題を抱え込んだそうです。そうしてサラ金業者がMさんのスキルに疑問を持ち、激しくなる連日の進捗会議に耐えかねて出勤しない出社拒否になったそうです。病名はうつ病です。現在は病院の神経科に入院中で回復の予定は未定だそうでした。Mさんは病気休暇の最長2年を取り元の部門Kさんと一緒にLAN工事の仕事に復職しました。しかし一ヶ月勤務の後また長期の病休になりました。Kさんも愛想をつかしたとのことでした。Mさんは1ヶ月2ヶ月出勤の後必ず復職委員会の承認を得て病休を取りそのまま退職までほとんど病気休暇で10年前定年を迎えました。あの様子だと一生うつ病は治らないでしょう。家族はお嬢さんが二人いて2人を大学卒業させる目標だと私に語ってくれましたが、長期の病休は給料の減額を余儀なくされ二人のお嬢さんは大学への夢は断たれお気の毒です。私が中学2年まで住んでいた家を出た者を虐めるとわが先祖が虐めた人に何倍も仕返しをするという仙人お爺さんの予言はまた当たりました。ただし我が先祖の御霊がそうしたのかは不明ですが、仕事をすべて取り上げて私を虐めたMさんが不幸になったのは確かです。

さらえまか: 祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)

2017年5月7日日曜日

三人の敵その1_2(最初に私から仕事を取り上げた上司の末路)

1998年初秋の頃でした。リーダであるMさんは私の自宅よりこの地域の中心地から3つ向こうの駅に住んでいました。自宅の話になると時々たびたびだったか、3つ向こうの自宅に来てくれ酒は飲まなくてよいから料理を楽しもうと誘われていました。秋になると少ししつこいほど誘うのです。何かの話のついでなく頻繁に自宅に来るように誘われたのです。どうしてそんなに熱心にという思いはありましたが、終業後、同じように会社を出て普段使わないその私鉄電車に一緒に乗ってMさんの自宅に向かいました。とても機嫌よく別れの酒宴とは想像できないほど歓待してくれました。18時前後に彼の自宅に到着、近所の行きつけの飲み屋に入り店を出るとき、精算時は決して私にお金を使わせようとはしませんでした。飲み屋を出た後はまた隣のつけの利く飲み屋での見直す、などと計3軒の行きつけの飲み屋でごちそうしてくれた。その時は歓待の理由は判りませんでしたが、その後すぐにわかりました。深夜11時ごろまで何を話題にしたか20年近い前なのでほとんど忘れてしまったが、包丁砥ぎの話だけは覚えています。まだ私は砥石で砥ぐという技術は身についていませんでしたが、Mさんは海釣りを趣味としており小型の出刃を持っていたそうで海釣りの獲物を処理するのに大変な活躍をする道具だとしつこいほど言っていた。包丁を研ぐという技術を身に付けると料理という素晴らしい世界が待っているとも力説していました。うまく研げた小出刃で刺身のツマのネギを輪切りにすると切り口がペッタンコにならず元の形である円形リングを保つとのことです。ネギの切り口を見れば研ぎの技量がわかるとも自慢げでした。翌日は休日だったので23時まで遊び駅まで送ってくれて3駅向こうの自宅に向かいました。
休み明けに出勤するとMさんは様子がおかしくこちらのあいさつを返してくれないのです。仕事もM&Kコンビで私を誘わず二人でこっそりしているようです。何か話しかけても取り付く島もないように口を閉ざしました。1週間もするとようやく自分は仲間外れにされたのだとようやく気付きました。別れの宴の翌日からLAN工事は私を除いてMさんとKさんの二人でするということが決まったらしい。人事権のある上司も承認した結果らしいとのことでした。仕事自体は前回説明の通り誰でもできるもので、自分がのけ者にされた理由がわからなかったが、私は大いに傷ついたのです。これからどうして時間をつぶそうかと考えていました。本当にすることがなかったのです。しかしLAN工事以外にもう一つ仕事があったのでした。会社の立地はそれぞれの部門が50㎞以内に4つのビルに分散してありました。私の担当が所有する固定資産や備品の数が大きく4つのビルの各階の部屋に分散して保管、使用されており年2回の固定資産備品の棚卸しですべての備品がどこかで適切に保管管理されていることを証明しなければなりません。責任者は管理している担当の人事権がある人なのですが、備品が所在不明となった場合、一番叱られるのは企画部経理です。各担当への指導が悪いということです。当時ACCESSのわずかな知識で備品台帳を作り各備品ごとに移動確認年月日、ビル名、3Fなどの階数、部屋名、部屋棚の位置などの履歴を付けて管理するデータベースを作って管理していました。わが担当の固定資産備品が会社で最大の金額、種類と品数が突出して大きかったので経理の人の悩みの種でした。4つのビルに所在がまたがっているのは私の担当だけだそうです。棚卸しの締め切りが近づくと毎日調査備品の探索依頼に来ています。経理とは同じ企画部だったので気安くしていました。また私の担当はもといた部門で居場所を見つけられず企画部に引き取ってもらった落ちこぼれのような人が多かった。もちろん私も落ちこぼれでした。でも経理の人から見れば私のEXELのスキルが彼らを上回っており、経理の人が目標としているACCESSでアプリを開発して改善活動発表会で発表しているのをご存じなので本当なら経理から馬鹿にされても仕方がない身分なのですが、EXELとACCESSのおかげで時々はありがたられていました。そしてACCESSで履歴機能が付いた備品台帳を開発しているという実績で馬鹿にされるということはありませんでした。それどころか履歴機能が付いた備品台帳が経理の人にとっていかに素晴らしいのか教えてくれました。最後の日付、何年何月何日、Aビル、4階、何々部屋の南東部にあったという履歴から次の移動場所が簡単に推定できるというのです。私に他の担当の備品台帳をACCESSで作成して運用の手順書を作成して他の担当に配ってほしいとの要望もありましたが、Mさんの妨害があったのか立ち消えになりました。EXELで備品台帳を作ると最新の備品の居場所しかわからず、一目で今までの履歴が全部見えるACCESSの入れ子表現にした履歴機能が付いた備品台帳を使って一番困難な私の管轄する備品の棚卸しが終われば、全体の峠を越えたような感覚になるとのことでした。経理からのあの備品を検索してくださいとかの依頼は結構楽しい仕事でした。人のお役に立てているという実感を感じられたからでしょう。私の担当の固定資産備品の移動があると経理の人が移動があった備品のリストを持ってきてくれACCESSのデータベースに登録してくださいとお願いに来たのです。しばらくして経理の人が来て検索で先日の移動備品の履歴がACCESSのデータベースに登録しているのを確認して経理の人は帰っていきました。備品が行方不明になると一番被害を受けるのは経理だと私には正直に言ってくれました。ところがある時期から経理が私に移動があった備品のリストを持って来なくなりました。経理の人に理由を聞くと移動があった備品のリストはMさんに渡すよう私の人事権のある上司から経理に通達があったそうなのです。経理の人は私にACCESSで管理してほしいらしいのですが、そんなことは言えないから仕方がないとのことでした。MさんはEXELで漏れがないように管理するから私に渡さず自分に渡してくれとのことでした。Mさんはとうとう固定資産備品管理の仕事まで私から取り上げたのです。Mさんの理由は判りませんでしたが断れば集団いじめの対象にされるなどの圧力を宴席などで受けたようです。そうこうしていくうちに腹が立つことがりました。出勤がだんだんつらくなっていった当時、うつむいて歩いていると背中をポンと叩くで見るとニヤニヤしたMさんでした。「うつむいて歩くと心の病気になる。胸を張って前を見て歩かないと」などと余計なからかいののような意見をもらったのです。私がうつむくような原因を作った人からのそうした言葉にさすがにむっと来ましたがどうすることもできませんでした。しかし数年後立場が逆転して出勤するうつむいて歩いているMさんの肩を叩いて「前を向いて歩こう」と本当に心の病気になって解雇されないよう出勤してきたMさんに仕返しができる日が来るとは当時は夢想だにしなかった、

2017年4月26日水曜日

三人の敵その1(最初に私から仕事を取り上げた上司の末路)

1998年当時、世間では中高年層のリストラ大流行、リストラの嵐でした。この当時の退職拒否した社員を退職させるための集団いじめや嫌がらせによる精神障害のまま退職、失業保険のあと退職金の食いつなぎの結果、退職金の枯渇、再就職先などあるわけもなく前途を絶望した当時のリストラ被害者のうつ病などを原因として列車の人身事故の遠因と私は考えてます。それにしても数年前から列車の人身事故によるダイヤの混乱が多すぎる。わが社でも代わりがある仕事をしている人には風当たりが厳しくなっていました。生き残るには会社にいないと困る人、必要な人材と認めさせる必要がありました。要するにだれでもできそうな仕事をしているとその仕事がなくなるとお客から重要な仕事を任されている部門からの引き合いがなく人材開発担当などに追いやられて退職を言い出すのを待たれる部門に行かされるということになります。そして正直に申し上げて1998年当時の仕事はスキルも必要なくやる気になればだれでもできる仕事でした。所属する組織、担当がなくなればいつリストラされても不思議でない境遇にいたのです。具体的には私の仕事は作業主任、リーダーであるMさん、Kさんと私の3人で社内向けのLAN工事をしていていたのです。ソフト開発部門に多かったのですが、新しいプロジェクト担当などを新設した場合Windows95がリリースされてから3年経っているのでパソコン、社内のホームページ閲覧機能、メール送受信機能がないと仕事になりません。必要に応じて倉庫に保管しているPCなどを引っ張り出してPCもこちらで用意しました。企画部門の一部なので仕事の環境を整えるのが仕事でした。LAN工事は近くのルータを押さえetherネットLANを伸ばした幹線を床下から追いかけて直径2㎝程の幹線に直行する穴を空け芯線まで届いた穴に先がとがった導電性の金属針をねじ込んでKAN幹線から支線を作りハブにつなげて新担当の各パソコンを集約ルータにつないで電子メールやインターネット環境を構築することです。その担当のためのハブにノートPCを繋いでDOS窓からルータにPING試験が通ればLAN工事めでたく完了です。
十字ドライバーを回したりLANケーブルをつなぐことが出来れば誰でもできる仕事でした。またこの施設を利用するのが社内の部門で何か間違いがあってもごめんなさいで済みます。さすがに毎日LAN工事はないので仕事がない時はネットにつなげている社員のパソコンのトラブル対応です。メールが送信できないとかインターネットに接続出来ないとかの問題解決です。企画部内のPC技術者と相談しながらLANボードのドライバなどを再インストールして解決させていました。暇な時もありますがLAN工事をする前よりはずっと会社に貢献できる仕事で人事権のある上司からも以前よりずっと仕事の内容がよくなり頑張っているとの評価を頂きました。1997年から1998年にかけてはリーダのMさん、先輩のKさんの3人で何とか給料分の仕事にありついていました。現在もそうだと思いますが、実際に給料分の利益を会社のために稼いでいなくても人事権のある上司が給料分の仕事をしていると認めればそうなのです。

2015年9月21日月曜日

○○署の免許更新検査官は女神さまです。即日公布の○○運転免許試験場なら1秒の間で「コレは?コレは?これ?」ダメです。でもって明日もう一度、再検査です。

5年に1回ですがとても憂鬱な時期が来ます。そうです運転免許更新です。特に視力検査が自信がないのです。1秒程度で「コレは?コレは?これ?と3回確認されたら上下左右が返答できません。10年以上前、府○試験場ではたまたま検査官の機嫌が悪く何か時間が足りないと焦っていただけかもしれませんが、○○試験場と聞くだけでコンタクトレンズの交換ともう一日の休暇申請の悪夢がよみがえります。今年も更新手続きは近所の○○署でしました。行く前に費用などを確認のため電話しましたが、試験場なら即日公布ですとか言って試験場を薦められました。雰囲気的に来てほしくないようなのです。あのような冷たい対応の試験場は行きたくないのです。○○署も免許更新費用6600円の収入になるのに、更新を○○署でするのは決して悪い話ではないと思うんですが。費用6600円の内訳は更新証書2500円講習費500円郵送費800円これらは国庫行きでしょうが、写真800円と安全協会会員費2000円は安全協会の収入となりOBのお金になるはずです。
○○署に隣接する警察OBの再就職先の交通安全協会で手続き書類を作成してもらいます。写真も交通安全協会で撮影します。15年前は駅の写真室で撮ったのを持ち込んだかもしれません。とにかく視力検査パスのためにはすべてのお金を交通安全協会に払うことに決めました。実際お金は視力検査パスと無関係だと思うのですが。
交通安全協会で6600円支払うと書類を作ってくれ隣接する○○署の視力検査を受けてくださいとのことです。検査の受付にはアラフォーより少し上ぐらいのお嬢様が居られました。ヘタな作り笑顔と「どうかよろしくお願いいたします」丁寧な最敬礼をしました。お顔を拝見してこの女性なら通してくれると確信のようなものがふつふつとわいてきました。検査手順は「こ  れ  は  ど  う  で  す か ?」とかよく見させて下さって20年以上前の試験場とはエライ違いなのです。彼女のためにあまり書けないのですが、一つだけとてもありがたい示唆もございました。検査終了を知らされた時、受付テーブルに両手をついて額をテーブルにぶつけるようにドゲサのようなポーズで「ありがとうございました」お礼を云いました。目を上げてチラリと彼女のお顔を見ますと横向いてソッポを向いていました。後ろに立っている上司と思われる男性警察官も横を向いていました。彼女はそんなにお礼をされると私が便宜を図ったように思われるじゃないの。私の立場も考えてね。でも少しゆるんだ口元は露骨な感謝ポーズでも腹を立てたような悪い気はしなかったと思う。

2014年6月22日日曜日

韓国版くもの糸 画像が携帯で見れない時はPCで見てください

蜘蛛の糸という有名な短編小説を読んだことがあります。誰でも存じ寄りと思いますが、一応あらすじを書かせて下さい
むかしむかし善行を積み重ねた蜘蛛が天国から下の地獄を見ていた。すると忘れられない知り合いが地獄で苦しんでいるのを見てしまった。その知り合いとは泥棒、強盗などまじめに仕事をしないで前世で悪行を積み重ねた盗賊Aでした。悪行ばかりのAも一つだけ善行があった。Aは盗みをはたらいた後逃げる途中蜘蛛を踏みかけた。他の昆虫のように硬い外殻を持たなく柔らかい蜘蛛は人に踏まれると確実にそこで人生が終わる。クモを踏みかけたAは一寸の虫にも五分の魂とか考えてクモを避け、もう二度と踏まれないように逃げ道の脇の草むらに手でそっと蜘蛛を退避させたのです。そんなことを忘れるようにそのあとすぐに再び逃走を始めた。そのことを一日も忘れていなかった天国の蜘蛛はなんとか地獄で苦しむAを助けたい。天国に来てもらってあの時の礼を言いたいと切に願った。そこで蜘蛛に出来る救命艇小さい助け船を出したのです。天国から蜘蛛の糸をAの前に降ろしました。Aは一人か二人しか乗れない救命艇でなかった蜘蛛の糸を天国へと向かって登り始めた。もう少しで天国という時に命綱である蜘蛛の糸に下に引っ張られる大きな力を感じで下を見ると、多くの地獄の亡者たちが下からAの蜘蛛の糸にぶら下がっているではないか。細い糸に大勢がぶら下がると切れて再び地獄行きは愚かなAでもわかる道理でした。Aは「蜘蛛の糸の権利は最初に見つけた自分にあるから登るまで一度降りろと」主張したがみんな自分だけが助かりたい。一瞬でも早く地獄の苦しみから逃れたい蜘蛛の糸に捕まった地獄の亡者に聞き入れられず、細い蜘蛛の糸はAの上で切れてAは再び地獄生活を余儀なくされたという自分だけが助かりたい欲に溺れたものの悲劇を描いた物語でした。調査しないで拙い記憶だけであらすじを紹介しました。細部の間違いは当然あります。お許しを。
さて今年に入って韓国で高校生が乗ったフェリーが沈没するようだと船長が判断して、「(助け舟・蜘蛛の糸を船長が独占するため)高校生は(船長の)安全のために外に出ないで船室にいてください」とけん制放送を繰り返しして高校生が避難する機会を奪い自分が救助艇を独り占めして真っ先に逃げた。船長放送を高校生が助かるための放送と信じて避難する機会を奪われた高校生が何百人も犠牲になったという大惨事が発生した。この船長は蜘蛛の糸のAより格段に頭が良く船は間もなく沈むだろう。その時日本の小説蜘蛛の糸のように銘々が自分が助かりたいと思うあまり稼働できる少ない脱出用の救命艇や他地域から来てくれる救助艇に多数の乗客が殺到する光景が浮かんだのでしょう。自分が助かるためには、乗客には船長が逃げる光景を見せないために船内にいてもらうのが、安全に船長が逃げる確実な方法と考えたのでしょう。
この船長は蜘蛛の糸のAが陥った過ちを繰り返さないために船内にいて外の光景を見せないのが安全とけん制放送をしたのでしょう。また裁判ではこのような理由づけをするかもしれません。フェリーボートの内部構造を一番よく知っているのは船長であり余人に替えることは出来ない。あとの数百人の救助のためには、船長の船の構造知識が絶対必要なのでまず自分が逃げた。船長の船の構造知識を救助に生かせる前に船が沈んでしまい数百人の犠牲が出たが船長としてはどうしようもなかった。自分一人が助かりたいために真っ先に逃げたのではなく一人でも多く助けたいために真っ先に逃げたと主張するかもしれない。私は起承転結-裏切りの予兆 などを経験して「人は自分が助かるためにはどんなひどいことでも何でもするものだ。それが人類の祖先から今まで命をつないできた本能」と骨身にしみているので必ず疑うと思うが、純真な高校生には船長は自分たちを助けたいために船内にいろと放送してくれているのだと善意に考えるのもむべなるかなです。

2014年5月12日月曜日

舌癌術後2年が経過しました。お陰さまで再発転移はありません。

 2014年3月6日で舌癌手術後2年がたちました。これまで半年毎、計4回CTスキャン、最初と1年毎3回、肺の横からのレントゲンを取りました。視診で表面、触診で口内再発やリンパ転移をチェックしてもらいました。術後半年後2012年10月あたりに硬い大きい砂粒のような触感がありました。たぶん舌の下、口低にC先生によると癌の触感を感じるものが発見、確認出来ました。しかし運よく次の月の検診では大きい砂粒のようなものは消失していました。そして2年後の4月16日、肺の横からのレントゲン写真では肺に転移は見られない。自費9000円ほどのCTスキャンでも頸部リンパに転移なしというお墨付きを頂きました。他の舌癌関係のブログなどを読むと舌癌ステージがステージⅡ T1N0のケースでは頸部リンパ除去手術はしないのですが、T2N0でも大方は頸部のリンパ節を除去するそうです。手術の跡が膿んだりして大変な負荷、ご苦労を背負い込んでいるようですが、教授の方針決断らしいのですが、私の場合はリンパ節除去手術は免れました。将来リンパ節を除去する手段を残したともいえます。教授の判断の根拠は運よくMRI、CTスキャンの解像度が特別すぐれた映像だったので自信を持って転移はないと判断して下さったのです。抗がん剤、放射線治療もしていません。現在のところこの舌以外に癌はないという判断は正しくこのままずっと正しくあってほしい。癌の告知の時、白昼夢でご先祖と思われる影絵の「そんなに気に病むな。大したことにはならないから」の通りに転移もなく順調に2年が過ぎました。とてもありがたく感じたのはこの2年間毎月予約検診に通院していましたが、これからは2ヶ月に1度でいいのです。びくびくするのが1ヶ月に一回から2ヶ月に1回になりました。休暇が年間で半分になりました。このまま3年経過、5年経過を迎えられるように今後も節制していきたい。「たばこ1本ぐらいはいいのでは」の1本お化けとのせめぎ合いは現在も続いてます。2年禁煙していますが1本お化けは毎日でてきます。だいぶん弱くなってきていますが、1本お化けは健在なのです。3ヶ月禁煙できれば苦痛はなくなるは私には当てはまりません。

2013年12月23日月曜日

起承転結_結(入社5年目の躓き 氷水と深夜の事故の関連とNさんの便り)

Jさんが勤務していたビルから10km離れているのに訃報が即日伝わってくるとはタイミングが良過ぎました。Jさんが入水したのは飲み屋の閉店後の深夜だったそうです。以前4代前の先祖から良い畑を奪った近所の人が亡くなった我が家に関係のある場所とは、実家である我が家が所有する水田用のため池でした。長さが30mほどで深さは最深部で底の泥の深さを入れても1m少しです。そこで氷水が張っている日に我が家の畑を手に入れた人はうつ伏せで亡くなっていたそうです。長身だったとかいうその方は立ち上がりさえすれば溺れることはなかったのです。

さらえまか: 岩場崖と交換された畑

我が家が所有する水田用のため池の下には1反少しの我が家の水田があります。その近辺の水田は2キロメータほど離れた大池から水を引いています。大池から水の供給を受けるのは他家の水田もあります。大池以外に別に自分専用のため池を所有しているのは我が家だけでした。長さが30mほどのため池なら1週間から10日ぐらいしか稲を生かせることができませんが、干ばつは梅雨明けから9月にかけて起こります。9月まで雨がない干ばつになれば、大池の水が枯れて、他家の水田がダメになっても30mほどのため池で1週間少ししのげば雨が降る確率が高まり、江戸時代などのご先祖もこの池を水田にしないでとても大切にしていたのでしょう。大昔にはあの小さなため池のお陰で私の先祖を飢饉から救った可能性が高い。9月まで耐えれば台風がもたらす雨が期待できます。ジィーゼルエンジンやボンプなどの灌漑設備がなかった江戸時代、明治などわが先祖の命の糧となったほどの自家製のため池は我が家と大変縁のある場所です。Jさんもそうですが、どうして消防用の防火用水のプールの中に入らなければならないか誰も説明できないのです。いくら酔っていたと雖も大寒波の中、水につかる気には到底なれないでしょう。更に入水するには、1mほどのコンクリートの塀に登りそこからまた1m少しの金網のフェンスを乗り越える必要があります。警察もその辺を考えて事件性があるかもしれないと捜査対象にしたと思われる。4代前の近所の人も寒い深夜我が家のため池に行く理由がなくたとえ入水しても池の中で立ち上りさえすれば、溺れることもなく生還できる浅い水田用のため池なのです。
Nさんの噂もそのころ伝わってきました。あれほど頭脳明晰で優秀だったのですが最近簡単な仕事でもポロポロ凡ミスを繰り返したそうです。そうして心の病にかかりそうした人ばかり集められている部屋に集められ仕事にもならないような簡単な作業を毎日して暮らしているという便りです。当然別のビルに集められていたそうです。その後Nさんの消息は入ってこないのですが、2000年当時我が社にも吹き荒れたリストラの嵐でもう会社にはいないでしょう。仕事ができない人に給料を出す余裕は会社にはないでしょう。頭がおかしくなりそうと言って3人組から離脱したNさんも本当のことだったのかもしれない。自分で仕事に穴を空けることを勧めておいて「俺もJさんも何もしていない」は応えました。本当に心の病に罹ったとは気の毒です。心の病の苦しさは経験済みです。
Jさんの訃報に接した時はたぶん、伯母から聞いた4代前の先祖と争った近所の人がお亡くなりになった氷水と深夜の事故とJさんの最後の場所が同じとは関連付けられなかった。まだこちらの神経が病んでいたので細かいことを思考できなかったのでしょう。ではいつからと考えれば、新宿の占い師から聞いた「あなたは大勢の先祖に守られている。大勢の先祖があなたを守っている。」の呪文のような意味を真剣に考えだしてからでしょう。







起承転結_結(入社5年目の躓き 即日に届いた訃報)

転勤後、会いたくないのに何度かJさんを見かけました。それ自体やむをえないことでした。距離的に10kmほど離れているといえ同じ会社ですし私が転勤したように他の多くの人がJさんNさんがいたビルから私のいるビルに転勤しています。したがってJさんが多くの知り合いが当然いるでしょうし仕事上の関連もあります。ただ腹立たしくウンザリしたのはJさんが私の顔を見るなり以前よりもっと親しげに走り寄って来た後何だかんだと話しかけて来ることです。いったいどの顔をさげて私に合わせることができるのか。どんな神経をしているのか。以前と同じ声を聞いてよけいムカつくのでした。最後のドアを閉めた時と同じように、返事しないでJさんから離れるのが常でした。Jさんは以前の薄笑いと違って目を合わせようとしていました。しかし今度は私が目をそらせました。こうしたJさんからの接触が年に1回から2回あったような気がします。今ならJさんの言い分がわかります。自分以外の人では常識となっているアフリカ以来の先祖から引き継いだ誰でも持っている人には言わない本音なのです。「あの状態では自分が助かるのが精いっぱいだった。」これは人間らしい当然の行動と思います。恨んでも仕方がない行動ですが当時は許せなかった。

転勤してから数年後、朝出勤時にこの冬一番の寒さだなと頬に当たる痛い寒気を感じた1月下旬の寒い日でした。私が仕事しているビルで、JさんNさんがいたビルから出張してきた人に会いました。私の顔を見るなり、驚くべきニュースを持って来たのです。Jさんが今朝遺体で発見されたというのです。Jさんの家から10分ほどの消防用の防火用水のプールの中で氷水の中でうつ伏せで浮いていたというのです。別居中の奥様と離婚した後、毎夜近所のスナックで飲み歩いていたとのことでした。そういえば「起承転結_承2(入社5年目の躓き 春から夏)」の頃から小学校の教師であるJさんの奥様との夫婦仲がうまくいかなくなったとのお話をよくしてくれました。Jさんは2年前に結婚、まだ新婚だった家庭事情を話してくれました。不仲の原因は奥様が世界3大宗教の一つに入信しており、ご主人のJさんにも入信を強要するようになったとか。たぶんそのころから私一人を悪者にして自分達は助かるつもりだったのでしょう。離婚後、話し相手もないので、飲み屋通いが常習化していたとか。氷が張った防火用水のプールは飲み屋からの帰路にあったらしい。私はJさんの家にお邪魔したことがないので当然、防火用水のプールは見ていないのです。プールはコンクリートの塀が1m以上ありその上にさらに1m以上の金網のフェンスがあり自分でよじ登らない限り中に入れない構造になっているそうでした。一応変死だが警察が事件性の疑いもあるとかで捜査中とのことでした。今夜お通夜であなたも来ないかと誘われました。「用事があるので行けない」と断るとJさんは私のことを折に触れて語っていたとのことでした。亡くなる数日前にも私を話題にしたそうです。彼はもう一度お通夜の出席を求めましたが、たぶん暗い顔をして断ったと思う。当時まだ精神的に、神経過敏症から立ち直っていなかった。その時も以前なら気にしなかったちょっとした刺激にも苦しんでいてこんなことになったのも、Jさんが仕事に穴を空けてくれという話を持ちかけて来たのが一番の原因なのに到底許せないという思いがありました。今考えると高校時代のH君の時も訃報がY先生を通じてその日のうちに届きました。さらえまか: 高校入学直後の躓きと後悔2
現在ならお通夜に倍席もするし彼から話しかければ何事もなかったように応じれる自信があります。しかしあの裏切りがなかった前の交友関係に戻ることは現在でも無理です。事実はなかったことには出来ないのです。







2013年11月16日土曜日

起承転結_転4(入社5年目の躓き 転勤即ち心機一転とはいかなかった)

新年のあいさつ以外、村八分で自分一人が孤立していた地獄のような前の職場から脱出できたのは幸運でした。友人人間関係がすべて破壊破綻され何の未練もなく負け犬としてしっぽを巻いて逃げるように転勤しました。新しい職場に行ってもNさんJさんから裏切りの予兆を感じたころからJさんから許しを乞われたのに返事しないで最後のドアを閉めた日までの出来事記憶の反芻でした。自分への仕打ちへの腹立ち、人の心は信じ難く醜いなど過去を引きずっていたのです。今から思うとまさにこれこそが心の病でした。振り返る値打も意味もないことに捉われ前を見ないで過去を振り返ることばかりでした。もし今もこの精神状態が継続しているなら入社5年後の失敗のブログなど絶対に書けません。人に知られたくない自分一人の悪夢として閉じ込めたいと考えるからでしょう。
振り返りで一番腹立たしいのは、日本の将棋の駒のように、相手側の陣営にまわった途端に、敵となって精神的ないやがらせを加えてくるのです。当然、集団でやられました。ここでHさんに忠誠心を見せておかないと次は自分が私と同じ運命をたどると集団いじめをエスカレートさせたのでしょう。その時まで自分の考えでしたが、友情と仕事は区別すべきもので、全く別物と考えていました。退職しても友人なら交際は続くでしょうし、友人関係に会社の事情を持ち込むべきではないと考えていました。でも他の人はこの反対の考えのようでした。一番大切なのは自分の会社での居場所を守ることのようです。雇用関係を守るためなら弱り目の仲の良い友人を踏みつけ、集団いじめの対象にしてもやむをえないという立場です。どうも自分以外の全ての人は友人・友情などに価値を置いていないようです。今、友情と仕事は区別すべきものというような甘い考えでは、生きていけない。かつての同僚は正しかったのだと思います。仕事、給料あっての友人なのです。勿論、誰もが秘した本音であって普段は友人は大切なのです。非常時どちらを選択かと切羽詰まった時は友情を捨てられました。神経科の先生は精神安定剤の副作用を認めようとしなかったのですが、安定剤の副作用は服用2年後から虫食みました。先生は副作用は医学的にはあり得ません。そこで脳に悪いものを排除する脳関門は鳥類にはありますか。あります。爬虫類は?爬虫類にもあるでしょう。では魚類には?あるはずです。では脳関門はアメーバなどにはあるのでしょうか?単細胞なのであるわけがないです。ほとんど無駄なご質問です。いいえ先生、私はアメーバに脳関門があるかを問題にしているのではなく、人類が脳関門を進化のどこかで必要があって獲得したものだと言いたいのです。必要があって獲得した脳関門を突破する精神安定剤は体に良いわけがない。医学的に体に悪いものに違いないのです。飲まない方がいいに決まっています。「安心して服用してほしい気持から副作用はないと言いました。少しあっても服用を中止すれば元に戻るものばかりです」私にとっての副作用は、だんだん無気力になりました。そうして込み入ったことを考えられなくなりました。確かに過敏症には少し効果がありましたが完全に楽になれるものではありませんでした。そうして無気力は1日、朝の起床から夜床に就くまで早く過ぎてほしいと願うようになりました。起きているのが苦痛なのでした。時々振り返り嫌な気持ちになりました。ダメージから立ち直るのに10年以上、人に話しても平気になるのは先祖供養を開始するまで尾を引いたのでした。

2013年11月10日日曜日

起承転結_転3(入社5年目の躓き 転勤できたが精神安定剤で心ぼろぼろ)

自分が望まなかったにしろ、仕向けられたにしろ、どういう理由であれ、自分に対する信用を裏切って仕事に穴を空けたのだから部内での制裁として「反省の態度が確認できるまで無期限に仕事をさせないというのは自分ながら納得できました。」またそれ自体それほど苦痛ではなかった。
私への陰湿な集団いじめは秋から年が明けても続いた。大いに傷ついたのは、私を見限ったことを証明するNさんからのイヤガラセでした。Sさんと同じことをして返り忠に励まれたのでした。
姉川の合戦後、朝倉家が一乗谷で滅亡する時、よくあることが朝倉家でも起こりました。(武田家では梅雪)自分の諫言を受け入れなかったのでこうなった。自分は嫌だが朝倉家の血を絶やさないために最後の土壇場で主家である朝倉家を累代の越前大野地方をもらっていた重臣が裏切るという醜い反逆です。当主朝倉義景は最後まで主人と運命をともにするという兄弟のように育てられた成人した近従小姓と親衛隊である馬廻り衆と一乗谷の城郭に籠っているのです。周囲の成人した近従小姓と親衛隊である馬廻り衆は朝倉家の名家から選りすぐられた勇者で構成され討ち死にを覚悟した朝倉家最強の部隊です。越前大野地方の裏切り者は命の保障と子孫を残せる食いぶちをもらうため返り忠として損害の大きい近従小姓と親衛隊を全滅させなければなりません。織田兵がそれをするとあまりにも損害が大きいからです。
結局、NさんJさんも私に対する嫌がらせを強要されたようです。神経戦争のような下品なことは裏切り者にさせろということでしょうか。年が明けた2月ごろ「もう駄目だ。」家に帰っても動悸が止まず、いつも早足で歩かないとおさまらない時間帯が毎夜ありました。社宅の階段を上ったり下ったり身体に運動負荷をかけるような意味のないことをするようになりました。神経科のコンサルティングを受け安定剤を処方してもらいました。最初に医師に面会した時、あまりにつらいので「入院させて下さい」と言うとあなたは自分がおかしいと思いますかと聞かれた。以前はこんな精神状態でなかったのは確かですから現在の自分は異常です。治療のために入院を希望します。先生曰く「あなたは入院する資格はありません。なぜなら自分が異常と認識しているからです。入院するほど悪い人は全員自分は正常であると思っています。そして宇宙人に監視されているとか根拠のない意味不明のことを主張するのが入院する人の症状です。」「病院のベットはあなたより症状の重い人のために空けていなければなりません。あなたは通院対象です。」そんなわけで精神安定剤の服用が始まったのです。
 そしてこの調子でここにいれば、さらに悪くなり転勤した方が自分のためと思うようになりました。
私は当時コンピュ-タ-の研修を受けるにあたって他の人より長い長期の簡単な試験のある研修を受けていました。それで一か所で最低2年勤めた後、希望すれば一度だけ転勤させてくれるという特権がありました。それをつてを頼って上部機関の研修の先輩にお願いして3月まで我慢すれば転勤できるようになりました。そして3月に神経がボロボロになって転勤の挨拶をして明日からは10Km離れた新しいビルの勤務地という時にJさんが話しかけてきました。「秋以降特にあなたと仲がよかった友人が○○君をいじめたが、すべてスパイHの差し金でみんな自分が苛められないために嫌々やっていたから悪く思わないでくれ」私は返事をしないで出口のドアを閉めました。

起承転結_転2(入社5年目の躓き 晩夏には自分一人が悪者にされた)

時々Jさんは人事権のある人に別室に呼ばれて1時間後に席に帰って来るということが何度かありました。私がプログラムの修正を遅らせて組織全体が困っている。開発設計部の担当としての処分を話し合っている。とりあえず先輩として私を指導しろと言われ続けたとのことでした。「それでもJさんは襟を正して毅然とその必要はないと言ったんですね」この返事はくれず話を逸らされた。その後Nさんは「俺もJさんも仕事に穴を空けるようなことは何もしていない。ただ○○君と話をしただけ」「Nさんは第3の矢を放つ約束では?」Nさんは逃げるように3人組から離れて行った。後から考えるとNさんは切り崩しに屈服したのを教えに来たのかもしれない。
いっそう親密さを増した3人組はHさんの働きもあり職場で孤立を深めました。お盆過ぎだった気がしますが、3人で食事をした後、Nさんは「最近寝付きが悪く精神的に参ったようだ。このままいくと頭がおかしくなりそうな恐怖でもう限界に来た。悪いが明日から3人組から離脱する。」思いつめたような真剣な目つきで言い出した。他人に迷惑をかけていない限り人間の行動、誰と付き合うかなどに制約をかけられるわけではないので「わかりました」これ以外の対応方法はありませんでした。その夜反芻するに、Nさんは、精神的に参っているようなことを言っているが3本目の矢を放つのが嫌で、頭がおかしくなってきたは理由づけで、ていのよい方便と考えた。でも本当はNさんのこの言葉にそんなに嘘がなかったと気が付くまでこの後数年が必要でした。そして3人組が2人組になったのです。Jさんは相変わらず人事権のある人を呪うような悪口ばかりを繰り返していました。
 お昼の休憩時間は行動をともにしていましたが、そのころからJさんはこずるそうな薄笑いを浮かべることが多くなった。返事に困った時などいつも私の嫌いなそういうまっすぐこちらの顔を見ないずるそうな薄笑いをよく見せました。晩夏のころ、「一体○○君(私のこと)に対してSもHもどんな報復をする気だろう。精神病も一種の傷害、障害罪に当たるのに」私に対する脅しとも取れないことはない。「Jさんはどうしてそんなことを知っていのですか。それは夜飲み屋でHさんから仕入れた情報ですか」Jさん薄笑いだけの返事をくれました。
そして2本目の矢を放つとかの9月に入って、Jさんは、聞いてもいないのに「あの9月の初秋の重要な小規模のグループ変更の仕事はする気がなかったが、出来てしまった。それで第2の矢は自動的に延期になった。いずれ放って人事権のある管理者に痛打を与えるつもりだか。しかし今回は期日までに出来てしまった。」最後に薄笑いを付けてこうした説明をしたのです。「要するにJさんもNさんと同じ道を歩むってことですか」「そのように解釈されても仕方がない」「私一人に矢を放たせ悪者にして自分は助かる気ですね」これがJさんと交わした悲しい最後の会話でした。
 3本の矢を1本づつ放つという約束が私の1本だけで私一人が悪者にされ、組織的な集団いじめが始まったのはこれからでした。次の日から朝から昼まで誰も口を聞いてくれないのです。挨拶も返ってこない。以前の仲良しと口を聞いていると彼はキョロキョロとHさんの方を見て逃げるように私から離れていったのです。
10月に入ったある日別の友人から「○○君には猛省を促して反省の態度が確認できるまで無期限に仕事をさせないということが幹部会で全員一致で決定された」と処分結果が伝わってきた。
以前仲がよかった友人に言わせたことにも彼らの悪意が感じられた。彼もそんなことを伝えるのは嫌だが断ると私の仲間と思われたくないのでメッセンジャーを引き受けたのでしょう。数年前までJさんNさんも私の1本目の矢に人事権のある管理者が耐えて簡単に交代する可能性がなくなってから私一人悪者にして自分たちは逃げることにしたと考えていました。最近は春真っ盛りまず私に仕事の穴を空けさせる計画を切りだした時から私一人を悪者にする計画をJさんNさんに持ち込まれたのではないと思うようになった。結局JさんNさんも磁気テープ処理中心のバッチ処理からリレーショナルDB移行などの会社始まって以来の大規模なシステム変更実施には欠かすことのできないキーマンです。会社始まって以来の大規模なシステム変更のために集団苛めなどの制裁で万が一その頭脳にダメージを与えるようなことはできないのです。私は来て3年目だからスキルもないし私がいなくても会社始まって以来の大規模なシステム変更に支障はないのです。これが私とJさんNさんとの決定的な違いでした。彼らは初めから逃げ道が用意されていたのです。

2013年10月9日水曜日

起承転結_転1(初夏 裏切りの予兆)

起承転結_承2(入社5年目の躓き 春から夏)

起承転結は2011年3月28日から休んでいましたが、この続きです。
前回までのあらすじ
入社数年後、私は前時代的なアセンブラ言語を使った社内システム開発関係部門に配属される。そこは当然データ作成、汎用コンピュータ運用、作成した帳票を使った営業部門との調整、帳票発送部門などのを含めた中心的な開発設計部門で他の部門からコンピュータを理解できる能力を認められた1000人以上の組織の中で将来性のある潰しのきく部門でしたが、職人的であり過ぎるゆえに転勤させると代りがいないという理由で人事が停滞して昇進できないという不満が鬱積した部門でした。しかも仕事ができる人ほど転勤の話を潰され飼殺しにされているという不平不満が充満した担当でした。しかし他の部門からはよくシステム改修などで相談され尊敬もされているという実質と昇進が結びつかないような矛盾を抱えていた。その中でSさんから人の不満などを耳にしたり、高い技術を持っている人の仕事の秘密を知った時、教えてほしい。などの頼みを断ったため精神的な嫌がらせを半年以上も受けました。それも2人がかりでされたのです。気にしないでおこう、何でもないんだと考えるほど気になりだし神経過敏症がひどくなりました。こちらの神経がおかしくなったと気付いた時には遅かった。そんな時NさんからSさんがよく読んでいた「法律で罰せられないイヤガラセ、神経戦争にはこうやっつけろ」などの本をよく読んでいたという噂を聞きました。
そしてSさんの昇進、Hさんの不平不満を煽り扇動する背徳将軍ぶり、花見の宴、Hさんの豹変と裏切り、Jさん、Nさん、私の3人組を孤立させるHさんの活動が激しくなってきました。
期日があり遅れると全社的に困り、Jさん、Nさんに言わせると間に合わないと人事権のある人は確実に左遷されるような重要な仕事の期日が近付くと、口をそろえてやり方の説明が悪いからと言って遅らせてくれと言われた。そして最後のデバックでバグを出し理解できない、わからないを連発して期日が来て完成まで数日遅れた。約束の日前日から人事権のある人はほとんど席にいなく関係部門を走り回り数日の猶予を確保したようです。つまり切り抜けたのです。NさんとJさんの人事権を持つ人は交替していなくなるとの目論見は間違いでした。私は個人的には人事権のある人には係わった期間が浅い分何の恨みもなかったのでしたが、後で第二の矢、第三の矢をNさんJさんが放つのと約束で、言われるままに仕事で穴を空けたのです。Jさんの大仕事まで1ヵ月以上ありました。矢を放ったのは私の1本だけでした。
この数日後Jさん「襟を正して堂々としているのは○○君だけだ」と言いました。その時は疑問に思わなかったが、帰宅後よく考えると、裏返すとJさん、Nさんは、襟を正して堂々としていないの意味にも取れます。まさかHさんのの切り崩しにあい軍門に下ったのではと恐ろしいことは自分で否定して追い払う以外方法がなかった。私の1本の矢は確実に相手に刺さったのです。

2013年8月22日木曜日

大切に育てているど根性トマトがコケました

もう数個収穫した側溝の隙間に植えた大玉トマトが今日までは順調でした。
ところが仕事から帰ると大玉トマトがこけていました。もう暗かったので原因究明と復旧は明日にしようと余裕がありました。目標のど根性トマトの収穫が数個達成していたからでしょう。ここで枯れてもここまで育てたのだからもういいのです。こんな気分でした。
翌朝まず曲がっている根元を見ました。刃物で切られていないか、よじれた衝撃で幹が割れていないかとをチェックしましたが切られてもいないし、無肥料栽培は茎に粘りを持たせるのかひび割れもありませんでした。こじつけかもしれませんが先祖の加護を感じました。
大玉トマトを支えている金網フェンスに縛り付けているビニールテープが金属疲労でなく風などのナイロン疲労で繊維が1本づつ切れて重みを支えられずに、紐が切れて倒壊に至ったようです。ふわふわ綿のようですが、これぞナイロンビニール疲労による1本づつジワジワ切れた紐です。
2か所で金網フェンスに縛り付けました。
一つ気になることがあります。ど根性トマトのすぐ内側はキュウリが占拠していました。放置すれば3年前の朝顔のようになるかもしれません。キュウリの実の表面が少し硬くなったような感じでしたのでそろそろ胡瓜のよい時期は終わった。また食べきれないほど生りましたのでもう1本はそのままでこの胡瓜を撤去しました。根から50cmのところで切断したのがこの写真です。また新鮮な芽が出てくればと期待したのです。切り口からぽたぽたと1日間水を垂らしていました。この胡瓜の恨みがど根性トマトを倒れさせたと恐れています。
すでに大玉トマト予備軍がまだあります。最近猛暑のせいか花が咲きません。もしかすればこれが最後のど根性トマトの収穫になるかもしれません。

2013年7月7日日曜日

「このコリコリとした硬さはまさしく癌の触感です」舌の手術痕を指で触診された腫瘍専門医C先生の第一声でした。

昨年2012年8月の下旬ごろでしょうか。舌の手術跡を鏡で見ていると「何だこれは?」独り言をつぶやいた。舌の右側切除部を、舌の下側の口底部分に縫い合わせているのですが、切除部の舌と口底部のところに薄いピンク色の直径数ミリの紙風船かお手玉の袋のようなものが出来ていました。直径数ミリのお手玉の袋のようなものは周囲の色と明らかに違った少し鮮やかな薄いピンク色でした。鮮やかなピンク色の袋のようなものは指で押さえると中に水でも入っているのか存在感がまるでないのです。とても柔らかいしわの入った袋としか云いようがありません。とても柔らかいしわの入った袋の周辺を人差し指で押さえると一か所だけ少し大きい砂粒が入ったようなコリコリを見つけたのです。このコリコリと鮮やかなピンク色の袋のようなもののどちらかか、または両方は、再発癌としか思えませんでした。不安な気持ちを持ったまま2012年9月12日の検診日にC先生の診察を受けました。そして表題のように鮮やかなピンク色の袋のようなものは全く問題ない。残った縫合糸が原因でしょうとことでしたが、砂粒が入ったようなコリコリは再発癌の可能性が高いとのことでした。しかし今すぐ処置しなければならないような緊急性はありませんとのご見解でした。正式な診断はCTスキャンで判明するとのことでした。翌月10月3日に予約が入っている術後半年後のCTスキャンの結果を見て対処すればいいでしょうとのことでした。次の検診日2012年10月3日までの一ヶ月は本当にめげるようなうっとうしい一ヶ月でした。「また手術か。食事がつらいのはいやだな。この再発癌が首のリンパに転移していくのでは」などと悪いことばかりを考える日々でした。CTスキャンの前日、1万円の検査費用をバックに入れた時、口に人差し指を入れました。砂粒が入ったようなコリコリを人差し指の先端で探しましたが、見つけられませんでした。コリコリは消えていました。舌の右側切除部と口底部をいくら探してもコリコリはないのです。鏡で鮮やかなピンク色の袋のようなものを探しましたがこれも消滅していました。
 CTスキャン後C先生に面会すると、触診では砂粒が入ったようなコリコリは、確かに消えていますとのことでした。C先生はCTスキャンの結果の画像を息を止めてみて下さいました。随分長い時間が経過したような気がしましたが、大きい声で「ない。異常なし」を宣言しました。この病院では光ケーブルを使ってPETの結果やCTスキャンの結果を撮影後すぐに主治医が見れるようになっています。命拾いをしましたが、私は自分も感じC先生も感じた砂粒が入ったようなコリコリはまさしく再発癌だったのでしょう。しかし癌に抵抗力を持った私の免疫が再発癌を駆除したと考えたいのです。今もつらいのですがあんな辛い目をして禁煙したのですから。タバコによる一酸化炭素は私の赤血球にはもうありません。赤血球は癌に戦いを挑めるだけのじゅうぶんな酸素を運んでいるはずです。そんなわけで術後1年後の今年2013年4月のCTスキャンの結果も問題なしでした。そして毎月1回の診察は来月も予約が入っています。

2013年1月1日火曜日

全身麻酔と舌25%摘出手術 生理食塩水でうがいができました

舌切除手術が3月6日ということで、3月2日入院しました。入院手続きに入ると幸運にも個室に当たったと言われました。入院オリエンテーションで個室は一応申し込みますが、病状が悪い人が優先されるので大抵当たらない。もし個室を割り当てられれば当然保険適応外で1日費用は3500円と国立らしく安価でした。予想に反して個室が当たったのです。発見が滅多にないほど難しい奥の早期舌癌を見つけてくれたA先生との邂逅、PET MRIのまれに取れるという白いスジ柱が出た解像度の高さ、癌告知で黒い影となって「大したことはない」と励ましてくれたご先祖と思しき白昼夢、そして今度の個室を引き当てた事実。入院して調べたが4人部屋の大部屋が10室あり個室は5部屋でした。一つは1日15000円の個室で、40人対4人 4人の中に重病者が2人入ると思う。要するに10分の1か20分の1の確率で1日3500円の個室に入れた。ご先祖の加護があったとしか言いようがありません。
 手術の前日麻酔医が来られた。明日よろしく、こちらこそ程度の挨拶でした。3月6日病棟の奥のエレベータで手術室へ。すぐに点滴開始、マスクした医師が耳元で「お顔は平気な様子ですが、血圧はうそを言わないようです。いつもよりかなり高い」声ですぐに昨夜の麻酔医と分かりました。「そうですか。がはははー」で気を失いました。麻酔医は麻酔注入のバルブを空けてリラックスさせるために声をかけに来てくれたのでしょう。あとで調べると全身麻酔の前に血圧が上がるということは麻酔医にすればとても都合が悪い事らしい。
 肩をゆすられて「すべて終わりました」と起こされました。「切除は25%で間違いないですね」しばらくしてC先生の声で「そうです75%残しています」。何か舌が軽かった麻酔で痛みはなく少し舌がかゆい感じだった。まだしゃべれそうでしたがこれ以上声を出すのが恐ろしくなった。そのままベットで自分の個室に運ばれ、看護師に「私たちはこれから3時間10分おきに見に来ます。舌が腫れて気道を塞がないかを見に来ます。呼吸が苦しくなればこのスィッチを押して遠慮なく呼んでください。」手術後一番つらい3時間が始まった。麻酔は切れてくるし、絶えずゴクンゴックンと仰向けで血を飲まなければならなかったからです。窒息死の危険がかなりなくなった夕方、C先生が処置室に連れに来た。したことは霧の麻酔液を舌に掛けてくれ舌を注射器で麻酔、電気を流して熱を出すペンチのようなもので手術の跡を挟んで止血してくれました。処置室に行くと大学病院の数人の医師が口を空けてくださいと口の中を見たがりました。最後来た人、何やら横柄な口調で周囲の医師に声をかけました。そして自分が何者か何も言わないで、ぶしつけに50cmまで顔を近づけて私の顔をジッと見たのです。本当にまばたきもしないで真剣に顔だけを見たのです。彼だけが口を空けてくださいと言わなかったのです。そして曰く「この人今日手術したかどうか外見だけでは全くわからない。全然顔が腫れていない。滅多にいない珍しい人だ」「この人は生まれながらに手術に強い人かもしれない」そしてC先生に「この人は大丈夫だ。今夜は○○にいる。何かあれば連絡くれ」そのまま出て行った。横柄な口調から耳鼻咽喉科トップの教授と思われる。彼は夜睡眠中の舌の腫れによる気道閉そくを心配して見に来たと思われる。たぶん転移がないのでリンパ節にメスを入れない方針を下した方でしょう。一度も診察はしていないがC先生の患者は自分の患者という意識があるのでしょう。生まれながらにしてどんな手術にも耐えられる手術に強い人とは喜べない褒め言葉です。その日執刀されたC先生「癌は100%取り切りました。切断面に顕微鏡で癌はありませんでした。あともう一度1週間後に病理検査の結果も出ます」そして3月13日病理検査でも癌は取り切れたとの判定でした。術後2週間は口の中が痛くうがいもできなかった。食事は取れず点滴だけで過ごしました。水道水と口に含んだだけで痛いのです。見かねた先生が生理食塩水を用意してくれました。痛くてうがいができなくて口の中が卵焼きが腐ったような異臭がしました。生理食塩水を使いだしてから初めて食べたのが売店で買ったプリン ヨーグルトなどです。生理食塩水に青いうがい薬などを混ぜて口の中を清潔にしだしてから急速に手術の跡が回復に向かい出しました。少しづつ食べられるようになりました。口の中が痛いのは信じられないのですが、タバコはがまんが出来たのです。とにかく生理食塩水には助けられました。そして3月21日退院できたのです。

2012年8月12日日曜日

ついにとらえた薬師如来の右手手相です。シンプルな四直紋でした。

以前投稿した国宝薬師如来の四直紋を撮影できるチャンスがありましたので簡単に投稿します。
以前撮れなかった法輪紋です。お偉い方に出るそうです。両手四直紋で薬師如来様と同じなのにどうして舌癌を2cm以上になるまで免疫が許容したのでしょうか。それでも今までは健康だった。
              
これが月光と日光を従えた国宝薬師如来様の右手の手相です。小指、薬指、中指、人差し指の真ん中から感情線に降りるように4本の短い直線です。これがよけいなものがない正真正銘の四直紋です。当然仏師は理想の手相四直紋を意識して線を入れたはずです。