2018年1月3日水曜日

母が特養ホームで叔母を看取ってから2年間で母の5人の敵が亡くなりました。

母の敵とは朝方顔を合わせるとその日一日中、気分が悪いという近所のおばさん達でした。アンナ叔母が特養ホームに移ったと噂を聞きつけたらしく我が実家のすぐ近くにアンナ叔母を追い出した社長夫人の実家があり、その社長夫人が帰省のついでに母を訪ねてきました。私も丁度帰省して実家にいました。家の前に大型の外車のような車が止まり、重いドアを閉める重量感のある音がしました。早口でよくしゃべりなんだかその時の気分で話しているように軽薄な感じがした。でも祖母もアンナ叔母も彼女を信じたのです。ドア越しに「アンナ叔母と一緒に暮らしてわかるでしょう。無口で陰気でこちらの気分も暗くなりとても一緒に暮らしていけない。私をわかってよ」そんな言葉だけが記憶に残っています。帰ってから母が言うのは「それほど仕方がなかった。やむを得ないと思うなら我が家の仏檀に姑であるアンナさんの実母の位牌があるので一度参って今言った仕方がないという理由を説明してやって下さい。お寺の墓でもいい。お寺は知っての通りすぐ近くだから。寺の墓が無理ならぜひ仏壇に」と勧めるとお参りはできないと実家のほうに車を向けたらしい。彼女も我が先祖の噂は耳にして怖かったらしい。ところで母には遠くから嫁に来て以来、どうしても苦手で嫌いな同性のご近所さんが5人いたらしい。年齢別には70代が一人、60代が二人、50代が2人だった。憎まれ子世にはばかるように5人ともとても健康でお元気だったとか。私が実家にいた当時、母は誰が嫌いだとかあまり人の悪口は言わなかった。私への教育上よろしくないと考えていたのでしょう。アンナ叔母が他界して3年目ぐらいの時期でしょうか。「最近この集落での暮らしが楽しくて仕方がない。嫌な人が次々と全部あの世に行ってくれた。2年の間に5人も葬式で見送った。それが全部私が嫌いな人だった」名前を聞いてみると自分も子供の頃から嫌いな人だった。死因は脳梗塞、心筋梗塞など急死が多かった。癌など長患いの病気はなかったと思う。母も私だけでなく近所の母の友人も申し訳なさそうにそっと喜んでいるとのことでした。大勢の人から嫌われている方々だったのだ。朝集落の細い道で出会うと挨拶かお米の育ち具合、天気の話とか何か話をしなければならない。それがつらくて朝出没しそうな場所を避けているが5人もいると大抵一人か二人に毎朝顔が合う。田舎では口を利かないなど無視、けんかはできない。結果その日一日気分が悪かった。これからはそんな心配はいらない。毎日が楽しくて仕方がないとのことでした。
仏壇の世話は母の役目でしたが、本当は面倒くさくとても嫌なのは知っていました。その頃から毎朝線香の匂いがするようになった。お供えの花は山つつじ、野菊、山百合などお金がかからないものばかりでしたが5人のご近所さんが亡くなってからは、明らかにお金を出さないと入手できない供花が増えたのでした。私もこの当時からご先祖様を考えることが多くなったのでした。

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