2018年1月1日月曜日

実家の薄暗い居間には浮き上がるような白髪の老女がいました。

ある夕方帰省してテレビのある居間に入ると真っ白な白髪の老人がテレビを見ていました。誰かがドアを開けたのが気付かないほど注意散漫だったらしく入り口を見ないで熱心にテレビを見ていました。もしやと思いアンナ叔母さんと呼びかけるとやっとこちらを向きました。皺の量と浮き上がるような真っ白の髪かアンナ叔母が戦った神経戦争の激しさが感じられお気の毒でした。私が10歳ごろ目の高さを同じにして「年老いて行くところがなくなると面倒を見て下さい」と子供の自分を頼みにしてくれた10年以上前と何か生命力が随分衰えたような気がしました。60歳過ぎて兄嫁(母)の世話になりたくない気持ちを上回るような心の傷を負って帰ってきたのです。少し神経がやられて軽い心の病気にかかっているだろうとは推察できました。母はアンナ叔母が来た当時、これから一緒に暮らしていくつもりでしたが、アンナ叔母とは性格が合わないところもあり兄と相談して、入所できる特別養護老人ホームを探すことに変更しました。アンナ叔母は出ていけの集団いじめによる長期の強いストレスなどで軽い精神疾患があり初期の乳がんにも罹患していまして数年以内の将来を考えると特別養護老人ホームでなくてはいけないそうでした。現在でもそうですが、公立の特別養護老人ホームはどこも満員で入居待ちがわんさかです。何か月、1年近く何度も同じ特養ホームに問い合わせて一か所だけ受け入れてくれる特別養護老人ホームを母が見つけ出したのです。しかし難点が一つありました。入所するお年寄りの貯金現金、年金などを入所時にすべて特別養護老人ホームの所長に預けるのが条件とのことでした。おかしいと思ったらしいが他にもそうした財産管理を強要する特別養護老人ホームが何か所か実際にあったそうです。アンナ叔母を引き受けてくれる特別養護老人ホームが他にあるわけがなく母もアンナ叔母本人も了解してめでたくアンナ叔母の居場所が確定したのです。この時初めてまだ存命だったアンナ叔母の実姉と2人で母に深々とお礼を言ったそうです。特別養護老人ホームでの暮らしはアンナ叔母には極楽のようでした。ただ同室の女性が喫煙するのでタバコが嫌いなアンナ叔母はそれだけが嫌だそうです。しかしアンナ叔母を蝕んでいた乳がんは年単位でゆっくりと肥大していったそうです。皮膚にも転移したらしい。しかし不思議なことに痛みが全くなかったとのことでした。何度が見舞いにも行きましたがお元気でした。「アンナ叔母さん、痛みはないのですか」「ないよ。またお墓参りに行きたい」最後を看取った母によるとアンナ叔母は痛みを訴えないで眠るように逝ったとのことでした。まさに私の理想の亡くなり方です。
さてその後社長夫人の繊維工場経営ですが、アジア諸国の繊維工業の台頭などで経営が苦しくなり将来のことを考えると会社の不渡りを社長の財産で防ごうとせずに不渡りを出して倒産させてしまえば出資金がなくなるだけで一生遊んで暮らせるだけの財産があるわけだから従業員を倒産解雇さえすれば社長一族は一生お金持ちでいられるのですが、社長夫人の財産などをつぎ込んで何年か持ちこたえたそうです。そのうちに繊維産業の景気も持ち直してうまくいけばガチャマンの時代が再来すると思ったわけでもないでしょうが、繊維不況がこれほど悪く長く続いたとは想定外のようでした。社長一族は私有財産を会社に
つぎ込み全部の財産が抵当に入ってから自ら育てた繊維工場は不渡りを出したのです。
そして社長一族は破産して債権者から逃げるために行方不明との消息が母に届きました。結果的には4歳ごろ会った仙人お爺さんの言う通りあの家で生まれた者を苛めると何倍もの不幸に会うという家の言い伝えの通りとなりました。アンナ叔母を助けた母にはもっとすごいことが起こりました。私が先祖供養をするキッカケになったことを次回書きます。

さらえまか: 祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)

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