2010年4月10日土曜日

待ち望んだタラの芽の収穫

 あきらめていたのに芽が出てから1年後2個のタラの芽ができました。南側が道路の家庭菜園取得に導いてくださったご先祖に感謝です。写真の背景はその日光供給源の道路の路面です。道路の代わりに住宅があればタラの木ももっと小さかったでしょう。影はお向さんの家の屋根です。時間は早朝です。
茶色い越冬用の薄皮がとれた直後の芽と収穫直前のタラの芽です。
春が進み大きく開いてしまったタラの芽です。でもまだ大丈夫と考えたい。
もう一本の木にも芽が出ました。めでたいことです。鑿で切りました。包丁だと刃を傷める恐れがあります。芽は2個あり収穫方法は来年に期して芽を二個残す。一個だけ収穫。全部収穫と3通りあります。どれを選択するかこんなばからしいことに何週間も悩みました。10cmの細い根が1年で直径2cmの幹に成長した事実。10cmの細い根は1mの根が何本かに増えています。1年で大きくタラの木は養分を蓄えているはずです。来年は先端のタラの芽を今年以上に収穫できそうです。そして来年は病院で寝ているかも知れないのです。隕石に衝突してお墓のなかかもしれません。人生何が起こるかもしれません。おいしく食べられる今を大切に考えて全部収穫を決断しました。
小さいほうの幹の葉を一枚だけ残しました。少し苦いかもしれない。まな板で食べられないはかまなどを取り去りから揚げにしました。

スーパで売っているのはタラの木の枝を切って芽を出させた根とつながってないタラの芽です。これは正真正銘野生のタラの芽と条件は同じです。あら塩で食べたのですが、味は濃く甘苦い味は来年に思いをはせました。

2010年4月9日金曜日

小学校卒業までの私と近所のお年寄り

振り返れば、我が家に親しいお年寄りが遊びに来た記憶がほとんどないのです。高齢ではK家のご隠居が一週間に一度程度来ていましたが、仕事を長男に任せて自分の仕事は風呂焚きだけにしたのは私が高校に入学してからでした。当時は完全な現役でした。父が味噌や甘酒を作る麹から作った酸味のある酒をよく飲んでいました。今思い出したのですが、農道助成金の残りの分配で我が家が7割負担が決まりそうになった時、現役のK家のご隠居はM家に「7割負担はひどすぎる。考え直してくれ」と説得に行ったそうです。息子への遺言「もし〇〇の家が困ることがあれば我が家が率先して〇〇の家を助けるんだ。」を自分で実践していたのです。4軒の中にK家は入っていないので、名目がなく相当いいづらかったでしょう。ただK家とM家はお隣さんという縁だけでした。「関係がないのに口を出すのはおかしい。もう決まったこと」と結果は散々だったとすっぱい酒を飲みながら言っていました。
 物心ついてからお年寄りと目が合うとお年寄りは必ず笑顔をくれました。ただ子供の目にも無理に作ったような不自然な笑顔が半分近くありました。母に聞いたのですが、私は生まれて一カ月で重い肺炎にかかり年老いた医者が「この子は今までの経験ではもう助けられない。あきらめてくれ」と宣告されたそうです。両親は先祖が眠るお寺に幼児の葬式の相談をしたそうです。それが運よく生きながらえたものですから祖母が大変喜びあちこちに「うちの子は先祖の加護が厚く先祖に呼び戻された。粗末にできない」とあちこちに自慢してまわったらしいのです。祖母の生家は近所にあり、なみなみならぬ祖母の勢力が近所にあったのです。友人の多さでは遠くから嫁に来た母はどうしても祖母にかなわないのでした。祖母の自慢を聞いたお年寄りは「○○の先祖と縁が深い子」というイメージを持ったかもしれません。その矢先の「先祖が許さない」事件です。また祖母は私をいつもそばに置いて手放さないのも母が気に入らなかったらしい。
 近所の子供がお年寄りを中心にした輪を作って昔話を聞いているときなど私が輪に入ると笑顔はくれますが、しばらくすると「用事を思い出した」とか言ってお年寄りはいなくなってしまった経験がよくありました。近所で新しい棟の新築があった時、郷里では無事を祈ってお菓子や餅を撒きます。お菓子や餅を撒く役はその家の顔、お年寄りです。ある時年長の子供から言われたのです。「お前はお年寄りから好かれている。前もそうだったがお前の周りに飴が雨のように降っている。だから俺は餅まきのときはお前のそばを離れない」
 近所にQさんというお年寄りがいました。彼だけが私と目が合っても笑顔をくれないのです。すぐに目をそらすのです。なるべく私を見ないよう避けているようなのです。郷里では秋に豊年祭があり最大の行事です。地域の人はタダでお酒が飲めるし祭りが昔から好きなようです。大人がする獅子舞、笛太鼓もありますが、子供も演舞などの行事に参加するのです。数人の選ばれた子供です。要するに酔っ払いのための演目ですが、祭りの期間だけはとても大切にされます。10歳の時、なり手がいないとお祭りの実行委員から私に参加してくれ、毎夜2時間練習しなければならないがおやつが出る。一度やっておけば一生神様の加護があるとか言って両親を説得したのです。Qさんも祭りが好きらしく、また演目に詳しく祭りの指導員を務めていた。その年は子供の指導はQさんの担当になったのです。Qさんの指導は厳しく泣く子供も過去にはあったのです。数人の子供を集めてQさんの指導が始まりました。学び始めて一週間ほどで不思議なことに気がついたのです。最初にやり方を説明してくれたのですが、私に間違いを指摘しないのです。これでいいのだと思っていたが、隣の子が大声で叱られていたのです。中身を聞いてみると自分も同じ過ちをしているのです。それからは他人が叱られているのを見て直していったのです。こちらから教えを請うと時間をかけて丁寧に教えてくれますが、Qさんから叱られることはないという異常な教えです。また別の子供が叱られていたのです。笛の練習をしていた大人と仲が良いらしく練習を少しサボったのです。「まじめにしろ。○○の子を見習え。彼は何も言わなくても人が注意されているのをしっかり聞いて自分で修正している」私を持ち上げるのです。私はこのままでは本番で恥をかくと必死だったのです。今振り返るとQさんも笑顔はなかったが気を使っていたようです。
 子供の時はお年寄りが気を使ってくれて居心地は良かったかもしれないが、お年寄りと接点がなく自分の人間形成では結局は損をしていると思う。私に笑顔を送ってくださったお年寄りも高校入学前にはお墓に入りました。

2010年4月4日日曜日

今日のテレビで「電気自動車は家電と全く同じ」。どうか車を安易に考えないでください

 今日のテレビでさる大手家庭電器の城下町と思われる町工場の偉い人が、電気自動車は電気を流して走るものだからわれわれ家電のメーカがすぐに簡単に作れるとテレビでおっしゃっていました。新規参入の意欲は結構なことですが、私はどんなに安くてもその車には乗れません。家電と電気自動車は電気の流れは同じですが大きな違いがあります。テレビではそのことを出演されていた他の評論家、ジャーナリストも訂正しなかったのです。番組では電気自動車は、家電メーカーならすぐにでも参入出来るハード、言わば家電と同じと同調されていました。家電と自動車の違いは人の命をのせるかどうかです。荷物用エレベータと人間様が乗るエレベータとは外見がそんなに違いませんが製造に要したコスト、メンテのコストが全然違います。人間様が乗るエレベータのロープは法律で3年で破棄されますが、すぐにリサイクルされます。丈夫で切れないからです。その企業城下町を作ったさる大手家庭電器は石油ファンヒータの回収で苦しんでいます。家電では一酸化中毒という珍しく人命にかかわる不具合を出したからです。パソコンやテレビその他ほとんどの家電は、出火が原因で火事の起因になった以外不具合が人命の安全を脅かさないのです。自動車関係業界は人を乗せるもの、製品の品質が人命にかかわるものと当たり前の前提がありますが、今日のテレビに出演された街工場の人は家電を製造するのと同じ感覚で発言されたようです。たとえば車の部品ウィンカーを考えるとウィンカーは家電と同じ電気で動きます。方向指示機が動作しなくなっても直接ドライバーの安全に影響ないですが、他の走行車、対向車との事故を発生させ結果としてドライバーの安全に影響を与えます。ヘッドライトの不具合も同様です。電気製品だからウィンカー、ヘッドライトを家電とは呼ばないでしょう。もう一度訊いて御本人に確認してみるとそんなことは当たり前と逃げるでしょうが、当たり前なのは真理だからです。真理はたいてい当たり前のことが多いのです。そして当たり前のことに気がつかない人は多いのです。彼はたぶん電気自動車を本当に作り始めるまで、ひどい場合では販売の認可を申請するまで違いに気がつかないのではないでしょうか。

 私に20年間故障しなかった車を提供してくれたメーカは一番簡単な部品、足の下に敷くマットで外国から苛められています。個人でできる大きなリサイクルは新車を乗りつぶすことです(無事是れ名車なり_車のリサイクル)マットの切れ込みでアクセルを踏み込んだのと同じ状態になるとか。ブレーキを制御するプログラムの不具合で一時的にブレーキが効かなくなるとか。理屈はよくわかりませんが。こうしたすべての問題も車は人命を乗せるから大問題になるのです。家電と電気自動車には大変な違いがありますよ。

2010年4月2日金曜日

幼児が発した憶えたての言葉にお年寄りはこだわった

仕事から帰宅した夜は気がつきませんが、朝日が差し込んだ仏壇にお茶を供える時、仏壇の漆の表面にたまったホコリが目立ちます。ホコリを放置すればご先祖様は許してくれないかもしれない。結果加護が少なくなるなどと考えながらウェットティッシュで白く浮き上がったホコリをはいていました。その時、フラッシュバックのように頭の深いところから浮き上がってきたのが「先祖が許さない」という祖母の口癖でした。私の世話をしてくれた祖母は小学校入学前に他界していました。「先祖が許さない」という言葉は同時に3つほどの映像も引っ張ってきたのです。よちよち歩きでオムツがとれない頃の記憶ですので正確性はないのでですが、ストーリーになるよう筋道をつけて書きます。

 祖父の法要の後と思いますが祖母の隠居部屋に父の姉と妹と祖母が集まってお茶を飲んでいました。祖母にしてみれば自分の部屋に産んで育てた二人の娘と久方ぶりに同座したのです。この3人は互いに一番安心できる人とおしゃべりしていたのです。私がいましたが物心ついていない幼児で気兼ねが要りません。たぶん姑の悪口を実母に聞いてもらっていた。その他の愚痴、世間のうわさ話などでしょう。話の節々で祖母が「そんなことは先祖が許さない」と繰り返し言っていたのです。それに対して叔母二人が先祖が許さないと繰り返していました。先祖が許さないとは御先祖が見てくれていずれ都合が悪いことが改善されいくだろう。もう少し辛抱しなさいの意味でしょうか。聞いていた私はなんとなく自分の都合が悪い時、先祖が許さないというのだなと考えてしまった。当時はたぶん大人の会話を全部理解できなかったと思います。伯母と同じように繰り返してすっかり覚えてしまったのです。
 ある晴れた日、家の外に出て500mほどの場所によちよち歩きで大冒険をしたのです。そして道路の少し広い場所に出ました。市町村の道路は補修する時役所が日当を払って周辺の住民を動員します。たいていその道路を使用する住民を選んで工事させれば効率が上がります。道路の少し広い場所では道普請の休憩で数人の30代の大人が座っていました。彼らにすればヨチヨチ歩きの私は格好の生きたおもちゃです。わかっていても家はどこかなど訊いてニタニタ笑いながら服装や歩き方をからかったのでしょう。私の応答がたどたどしいか答えになっていないかゲラゲラ大笑いされました。なんとなく馬鹿にされている。状況として自分の都合が悪いのは理解できたのです。そして「先祖が許さない」と言ってしまったのです。もう一度言ってくれと言われて大きな声で言い返すと大爆笑です。先祖が許さないはオムツがとれない子供がいう言葉でなくギャグのようです。また笑われたので背を向けて実家のほうに帰ると背中から長い間笑い声が途切れなかった。以下は想像です。
 気楽な道普請が終わり帰宅して夕食時「おやじ、今日面白いことがあった。オムツがとれない子供が先祖が許さないと口走ったよ」腰が曲がったようなお爺さん「普請御苦労さん。それは面白い。ワシももう少し若ければその子供に会えたのに。誰でも笑うよ。でどこの子供だ」「○○だ」「何、○○だって本当か」「○○の家から来たしみんなが笑うので帰って行ったよ」「道普請に参加した家はどことどこだ」「XXと△△」御隠居はしばらく考え込んで「これからXXに行ってくる」
 その夜かどうか知りませんが3人ほどの白髪頭のお年寄りがやって来ました。父親と話し込んだ後私が呼ばれた。一人のお年寄りが腰を屈めて私の目を覗き込んで「すまなかった」と言いました。私の郷里ではお年寄りは偉くて尊敬され若い人はその言葉に従うのです。父も丁寧な口調でした。先祖が許さないとは誰の言葉だと訊かれたのでおばあさんと答えた。「意味を知らない子供が真似をした言葉ですから気にしないで下さい」などとお年寄りに説明したのでしょう。その後お年寄りの見守る中、父が仏壇に線香と灯明をあげたのです。お年寄りが帰った後、人前で先祖が許さないと決して言ってはいけないと言われました。孝心が厚い父は祖母には何も言わなかったでしょう。仙人お爺さんとの邂逅はこの後だったようです。仙人お爺さんの記憶のほうがはっきりしているし、足腰がしっかりしていました。私が最初に仙人お爺さんを見つけて、走ったので心配して祖母が「危ない。走るな」後をついてきたと記憶しています。祖母は私の右後ろに立っていました。仙人お爺さんが話していたのはこのことかもしれない。たいていのお年寄りは長年の野良仕事で日焼けしてるのですが、仙人お爺さんは日に焼けていなかった。もしかしたら長期間病床にあったかもしれない。その後見た記憶がないのです。祖母に誰と聞くと「ホウさん」と答えた祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)