2018年7月28日土曜日

無肥料栽培菜園の夏の幸(さち) 2018年7月

幸は女性の名前にも多く使われますがgoogle検索結果には「自然界から得たうまい食物」の意味がありここではそういう意味で使いました。
無肥料栽培は年々厳しくなってきています。特にここ3年ほどは翌年は全く収穫できなくなるのではと不安が募ります。でも例え胡瓜の苗1本からキュウリ1本の収穫になっても
1本でも収穫がある限り無肥料栽培を継続します。百貨店の総菜売り場で古漬け1本で300円支払って購入してもこの写真の無肥料栽培を漬け込んだ漬物に遠く及びません。無肥料栽培を漬け込んだ胡瓜は市販の漬け物とは別次元の食べ物なのです。コリコリと噛んだ味は透明感のある酸味と甘みそれと菜園の土のうま味を感じます。有名百貨店の古漬け胡瓜は一度無肥料栽培を漬け込んだ胡瓜を食すると購買意欲が萎えます。毎年収穫は厳しくなっていますが少しでも収穫できるなら無肥料栽培を継続します。癌発症と同じく2012年頃から始めた無肥料栽培は来年7年目を迎えます。来年こそまだ2011年頃の化成有機肥料が残っていた2012年2013年と同じように良く実る年と信じ期待します。

2018年7月26日木曜日

大玉トマトの植付けを今の猛暑盛夏にします。2011年に初めて大玉トマト収穫成功した再現をトライします

大玉トマトの脇芽をペットボトルに挿しました。ひたすら発根を祈ります。
何週間後ついに発根して根が長くなりました。遅すぎるほど根が成長しています。
 後ろにある黒いのは木酢です。備長炭を焼くとき出る煙を冷やして液体にしたものです。ウバメガシのエキスです。今回は土壌菌をよくするために使うのでなく単にトマトの挿し木の映り映りを良くするための黒子として使いました。実際木酢のペットボトルは黒いです。結局、害虫消毒も土壌菌をよくするために使う木酢も家庭菜園では縁の下の黒子です。木酢は主役にはなれないんだ。根から上が挿し木の時期が過ぎていたようで痛んでいます。半分枯れかかっています。
小さい鍬、手クワで地面を慣らしました。手クワは根がしつこい雑草駆除に便利です。根が残るとすぐに再生する雑草取りには必須ですがここでは繊細な水中で発根した大玉トマトを植えるため移植ごてでなく手クワを選んだつもりです。
赤枠で囲んでいるのが一番上の根です。肥食い根でしょうか。これからの成長にとても大事な根ですが、もっとも無肥料栽培ですので、肥食い根はおかしな表現で、肥料はありません。しかし一番地表に近い根を肥食い根と田舎では呼んでいました。
苗の位置を俯瞰しますと南側の道路が見えます。これだと毎朝家庭菜園に入らなくても金網越しに水を掛けれます。この苗がこの猛暑を乗り切るためにこの位置に植えたのです。猛暑対策の頼みは水だけなのです。それと用済みとなった水が入ったペットボトルにもう1本の脇芽を既に挿しています。脇芽苗2号です。まだ発根していないペットボトルに挿した脇芽が枯れた時の予備の苗です。

2018年7月15日日曜日

たった1本の大玉トマトの苗です。脇芽が出たら挿し木の計画があります。

 先週購入して植えた鬼ヶ島童子トマトです。これまで4月の初めに購入していた苗と比べるとかなり大きい苗です。値段も300円以上しました。
すでに大豆よりひと回り大きい大玉トマトの実がありました。現在のこの大玉トマトがすべきことは無肥料土壌の中で無肥料状態でも成長可能なように普通の施肥した菜園の何倍も値を成長させるのが学生の本分お勉強と同じように大切なこの大玉トマトの義務務めです。実を大きくさせて子孫を残す種を作るような生殖活動はご法度です。目先のこの実を成長させればトマトの木の成長がなおざりになるのが自明の理です。長岡の米百俵の教訓と同じです。
1日でも早く無肥料栽培でも成長して多くの実を結実できるようになるまで不良少女のように妊娠はご法度なのです。目の前の1個の大玉トマトより将来の大玉トマト複数結実収穫のため摘果を即断しました。少し可哀想ですが。

2018年7月8日日曜日

接木ピーマンは初めよいのですが。無肥料栽培では、接木苗はウサギのように後から来た亀に追い越されます。

今年近所の花屋で夏野菜の苗を売っていました。切り花屋だけあってディスプレイ陳列技術は上手でした。花がない野菜の苗なのに本来の商品切り花より目立っていました。キュウリピーマンを買ったのですが、ピーマンが接木苗だったのを代金を払ってから気が付いたのでした。1本ぐらいいいかで今日にいたっています。その花屋はすべて利幅の大きい接木苗でした。これが間違って買った接木ピーマン です。すぐに開花してピーマン収穫1番乗りです。ですが亀に例えた実生ピーマンに一ヶ月もすると最後は負けます。
現在植えてから一ヶ月過ぎています。接木ピーマンの丈はツルハシと同じです。不良少年少女のように生殖活動は早熟です。ピーマンの実をすでに収穫済みです。
そして実生苗の写真です。10㎝以上接木ピーマンより丈が長く軸の太さも倍以上あります。初収穫では接木ピーマンに負けましたが一生懸命にお勉強して体力と経済力をつけてから子孫を残そうとするので、実生苗は優等生の亀なのです。このまま成長を続けて沢山のピーマンの実をオーナーである私にくれます。頑張れ頑張れ実生苗。

2018年6月24日日曜日

昨年カサブランカとダマされて買った東洋のユリが再び根付き、大輪の花を咲かせました。ただし1輪です

昨年東洋のユリを数輪開花後、カサブランカでないと判明、結果このユリには全く興味をなくしました。そして早く枯れてくれと言わんばかりにこの三角形の菜園で最も命を繋ぐのが困難な三角形の頂点部分に放置しました。鉢型になった白い根とユリの球根は、8月の灼熱で当然枯れた、灼熱のあとは冬が来て水が凍るような寒さで、もし夏を乗り切ったとしてもこの寒さで止めを刺されるだろうと信じていました。春になってユリの本体が芽を出したので昨年騙された恨みがまだ癒えず三角形の頂点から抜いてゴミ箱に入れようと手を付けたのですが、ここまでの生命力に敬意を払って7月まで花をつけるか見守ろうと猶予を与えました。そしてこの大輪の花をつけたのです。
見て下さい。左下の青い柄杓はこのユリの花の大きさを認識してもらうために写真に入れました。花の大きさがわかります。白い花びらの色はくちなしの花の花びらのようにきめ細かい白い色です。そして花の大きさは昨年の倍近くあるのではないでしょうか。百合の花の匂いは金網の外からも嗅げます。肥料なしで成長した分、昨年より香りが強いです。そんなわけで騙されたカサブランカは良いおまけをくれましたが、この花が終われば撤去予定です。今度は本気です。私の家庭菜園はもう1年ユリを育てるほど広くなく狭いのです。

2018年6月16日土曜日

昨年の味方は今年は敵です。家庭菜園訪問中の蜂とは違って今度は幼虫などの家族を守るため攻撃してきます。

この階段は部屋から外に出るとき必ず通ります。最近蜂が多いと感じていました。近くに餌になる昆虫でもいるのだろうと思っていましたが周囲を見渡しても10mほど離れた家庭菜園以外昆虫などいないのです。この蜂の巣がくっついている段より上にステップを掛けてている時ブーンと羽音がして足元のステップの下に2匹の蜂が吸い込まれたのを見ました。蜂を階段でよく見る理由が一瞬で理解できました。最悪のことが階段で発生していたのです。そして蜂の巣をカメラで撮影したのがこれです。飛べる成虫が数匹の足長バチの巣です。女王バチがどれか判りませんが、この階段は早朝3時ごろ新聞配達の人が2回まで配達にドンドンと足を踏み鳴らして通ります。郵便局の人も通ります。昨年菜園でピーマンの上で出会った蜂はすぐに逃げましたが、自分の巣にいる蜂は逃げないで攻撃してきます。スズメバチは採餌中でも逃げないで攻撃してくるそうです。アシナガバチも蜂の幼虫や白い卵、柔らかい蛹を狙った略奪者と勘違いされて攻撃されるかもしてません。今は蜂の数も少ないのでおとなしいかもしれませんが、秋に数十匹になると狂暴になるでしょう。1日に何回も行き来する自分が一番危ないでしょう。
市役所に頼めば駆除してくれるそうですが土曜の今日は無理で市役所が指定した平日に会社を休んで立ち会わなければならないそうです。よく考えた後今日の今、自分で駆除するように決めました。最初道具は子供の時、足長バチの魚釣りの最高のエサになるアシナガバチの巣にいる幼虫をとる時によく使った帚を使う予定でした。ホウキの柄のほうで巣をちぎるように落としてさっと逃げる。さて現在あの当時のように逃げる時、蜂より早く走れるのだろうかと考えると心もとない。後は親バチがいなくなるのを待って巣を捨てるつもりでしたが、仏壇にお参りすると蜂用の薬があるかもしれないと考え直しました。仏壇に報告したのは蜂に刺されないようご先祖の加護をお願いするつもりでした。そこで薬局に相談すると11mも毒液が飛ぶ蜂専用のスプレーがあったので買いました。
11mダブル噴射の直後です。巣には1匹もなく2匹は飛び出ました。そして残りは下に落ちています。噴射中は噴射の反作用でスプレーを動かさないよう少し力を必要としました。
落ちた蜂をよく映すアングルです。
気を失っているだけかもしれない蜂と撤去した蜂の巣とピンセットです。用心のため逃げられないようにビニールに入れました。蜂専用のスプレーは大正解でした。災難は去ったのです。

2018年6月2日土曜日

無肥料栽培の菜園はもうダメかもと昨年思った。今年のジャガイモは茎葉っぱが立派ですが肝腎の芋はどうかな???

まずは試し掘りの株の選定です。葉っぱの緑が薄く白っぽい、黄色っぽいのを探しましてこれが一番成熟しているようです。もう一つ考えることがあるのです。ジャガイモを掘り茎と葉っぱが無くなった時の、日照権を得た野菜などがあるかどうかです。真ん中手前に高い支柱がありキュウリが取り付いていますが、キュウリの心配は不要です。ツルなので日光確保は自分で解決します。このキュウリの根本からほんの少し左奥にピーマンが少し見えます。このピーマンはジャガイモを追い越し日照権を自分で解決するまであと一ヶ月以上かかるでしょう。このキュウリの奥の接木ピーマンのためにジャガイモの試し掘りの株をを決めたのです。どうせ間違って購入したあまり収穫が期待できない、無肥料栽培に向いていない接木ピーマンよありがたいと思いなさい。昨年のことを思い出せばあなたは私にピーマンの実を多くは提供できないのです。
 支柱を外して最初のスコップを入れます。支柱を外すとジャガイモの茎は倒れました。もう収穫の時期は近いようです。
 今年も前のように1株のジャガイモを無肥料栽培菜園に降りる階段に並べ全部の収穫物が見えるように飾りました。たわしの右にあるのはこの菜園を三角形とイメージすると頂点部分にあった里芋です。この階段の左手にある何も植えていない部分に移植します。
収穫したジャガイモをズームアップしました。1食分にできるのは8個です。この個数は無肥料栽培ジャガイモ栽培以来最高なのではないでしょうか。芋がブツブツするような傷がなくきれいです。
たわしの横にあった里芋を秋に収穫できるように植えました。試し掘りのジャガイモの葉や茎でマルチしました。ジャガイモの茎や葉っぱは雑草守備隊に任じました。枯れて腐ると天然肥料になり最後の使命を終えます。無肥料栽培では資源は循環させて再利用を繰り返すべきなのです。






2018年4月15日日曜日

野積みしただけの落ち葉腐葉土を三角畑に鋤きこみました。昨年のような野菜の不出来がありませんように、野積みしただけの落ち葉腐葉土の土作りの効果を信じます

 場所で申しますとこの手前に2016年秋に集めたケヤキの野積みしただけの落ち葉腐葉土が15ヶ月かけて熟成させています。緑の支柱は前作業の結果埋めた野積みしただけの落ち葉腐葉土を入れた穴との境界です。
 疲れたと感じたらいつでも蓋をして作業中断できるように畝の中央に1.5mほどの穴を掘ります。長く掘ると中断がいつでもというわけにいかなくなります。
 野積みしただけの落ち葉腐葉土を入れます。
 穴の中で野積みしただけの落ち葉腐葉土とこれまで野菜を土立てた土を混ぜます。そして土の蓋をします。
 先ほどの穴の隣に次の穴を掘ります。
 穴に野積みしただけの落ち葉堆肥と土を混ぜます。繰り返しです。
道路側の畝に野積みしただけの落ち葉腐葉土の鋤込みが完了しました。
野積みしただけの落ち葉腐葉土は少なくともこれまでは美味しい無肥料栽培野菜を恵んでくれました。今年も期待を裏切らないで下さい。

2018年1月3日水曜日

母が特養ホームで叔母を看取ってから2年間で母の5人の敵が亡くなりました。

母の敵とは朝方顔を合わせるとその日一日中、気分が悪いという近所のおばさん達でした。アンナ叔母が特養ホームに移ったと噂を聞きつけたらしく我が実家のすぐ近くにアンナ叔母を追い出した社長夫人の実家があり、その社長夫人が帰省のついでに母を訪ねてきました。私も丁度帰省して実家にいました。家の前に大型の外車のような車が止まり、重いドアを閉める重量感のある音がしました。早口でよくしゃべりなんだかその時の気分で話しているように軽薄な感じがした。でも祖母もアンナ叔母も彼女を信じたのです。ドア越しに「アンナ叔母と一緒に暮らしてわかるでしょう。無口で陰気でこちらの気分も暗くなりとても一緒に暮らしていけない。私をわかってよ」そんな言葉だけが記憶に残っています。帰ってから母が言うのは「それほど仕方がなかった。やむを得ないと思うなら我が家の仏檀に姑であるアンナさんの実母の位牌があるので一度参って今言った仕方がないという理由を説明してやって下さい。お寺の墓でもいい。お寺は知っての通りすぐ近くだから。寺の墓が無理ならぜひ仏壇に」と勧めるとお参りはできないと実家のほうに車を向けたらしい。彼女も我が先祖の噂は耳にして怖かったらしい。ところで母には遠くから嫁に来て以来、どうしても苦手で嫌いな同性のご近所さんが5人いたらしい。年齢別には70代が一人、60代が二人、50代が2人だった。憎まれ子世にはばかるように5人ともとても健康でお元気だったとか。私が実家にいた当時、母は誰が嫌いだとかあまり人の悪口は言わなかった。私への教育上よろしくないと考えていたのでしょう。アンナ叔母が他界して3年目ぐらいの時期でしょうか。「最近この集落での暮らしが楽しくて仕方がない。嫌な人が次々と全部あの世に行ってくれた。2年の間に5人も葬式で見送った。それが全部私が嫌いな人だった」名前を聞いてみると自分も子供の頃から嫌いな人だった。死因は脳梗塞、心筋梗塞など急死が多かった。癌など長患いの病気はなかったと思う。母も私だけでなく近所の母の友人も申し訳なさそうにそっと喜んでいるとのことでした。大勢の人から嫌われている方々だったのだ。朝集落の細い道で出会うと挨拶かお米の育ち具合、天気の話とか何か話をしなければならない。それがつらくて朝出没しそうな場所を避けているが5人もいると大抵一人か二人に毎朝顔が合う。田舎では口を利かないなど無視、けんかはできない。結果その日一日気分が悪かった。これからはそんな心配はいらない。毎日が楽しくて仕方がないとのことでした。
仏壇の世話は母の役目でしたが、本当は面倒くさくとても嫌なのは知っていました。その頃から毎朝線香の匂いがするようになった。お供えの花は山つつじ、野菊、山百合などお金がかからないものばかりでしたが5人のご近所さんが亡くなってからは、明らかにお金を出さないと入手できない供花が増えたのでした。私もこの当時からご先祖様を考えることが多くなったのでした。

2018年1月1日月曜日

実家の薄暗い居間には浮き上がるような白髪の老女がいました。

ある夕方帰省してテレビのある居間に入ると真っ白な白髪の老人がテレビを見ていました。誰かがドアを開けたのが気付かないほど注意散漫だったらしく入り口を見ないで熱心にテレビを見ていました。もしやと思いアンナ叔母さんと呼びかけるとやっとこちらを向きました。皺の量と浮き上がるような真っ白の髪かアンナ叔母が戦った神経戦争の激しさが感じられお気の毒でした。私が10歳ごろ目の高さを同じにして「年老いて行くところがなくなると面倒を見て下さい」と子供の自分を頼みにしてくれた10年以上前と何か生命力が随分衰えたような気がしました。60歳過ぎて兄嫁(母)の世話になりたくない気持ちを上回るような心の傷を負って帰ってきたのです。少し神経がやられて軽い心の病気にかかっているだろうとは推察できました。母はアンナ叔母が来た当時、これから一緒に暮らしていくつもりでしたが、アンナ叔母とは性格が合わないところもあり兄と相談して、入所できる特別養護老人ホームを探すことに変更しました。アンナ叔母は出ていけの集団いじめによる長期の強いストレスなどで軽い精神疾患があり初期の乳がんにも罹患していまして数年以内の将来を考えると特別養護老人ホームでなくてはいけないそうでした。現在でもそうですが、公立の特別養護老人ホームはどこも満員で入居待ちがわんさかです。何か月、1年近く何度も同じ特養ホームに問い合わせて一か所だけ受け入れてくれる特別養護老人ホームを母が見つけ出したのです。しかし難点が一つありました。入所するお年寄りの貯金現金、年金などを入所時にすべて特別養護老人ホームの所長に預けるのが条件とのことでした。おかしいと思ったらしいが他にもそうした財産管理を強要する特別養護老人ホームが何か所か実際にあったそうです。アンナ叔母を引き受けてくれる特別養護老人ホームが他にあるわけがなく母もアンナ叔母本人も了解してめでたくアンナ叔母の居場所が確定したのです。この時初めてまだ存命だったアンナ叔母の実姉と2人で母に深々とお礼を言ったそうです。特別養護老人ホームでの暮らしはアンナ叔母には極楽のようでした。ただ同室の女性が喫煙するのでタバコが嫌いなアンナ叔母はそれだけが嫌だそうです。しかしアンナ叔母を蝕んでいた乳がんは年単位でゆっくりと肥大していったそうです。皮膚にも転移したらしい。しかし不思議なことに痛みが全くなかったとのことでした。何度が見舞いにも行きましたがお元気でした。「アンナ叔母さん、痛みはないのですか」「ないよ。またお墓参りに行きたい」最後を看取った母によるとアンナ叔母は痛みを訴えないで眠るように逝ったとのことでした。まさに私の理想の亡くなり方です。
さてその後社長夫人の繊維工場経営ですが、アジア諸国の繊維工業の台頭などで経営が苦しくなり将来のことを考えると会社の不渡りを社長の財産で防ごうとせずに不渡りを出して倒産させてしまえば出資金がなくなるだけで一生遊んで暮らせるだけの財産があるわけだから従業員を倒産解雇さえすれば社長一族は一生お金持ちでいられるのですが、社長夫人の財産などをつぎ込んで何年か持ちこたえたそうです。そのうちに繊維産業の景気も持ち直してうまくいけばガチャマンの時代が再来すると思ったわけでもないでしょうが、繊維不況がこれほど悪く長く続いたとは想定外のようでした。社長一族は私有財産を会社に
つぎ込み全部の財産が抵当に入ってから自ら育てた繊維工場は不渡りを出したのです。
そして社長一族は破産して債権者から逃げるために行方不明との消息が母に届きました。結果的には4歳ごろ会った仙人お爺さんの言う通りあの家で生まれた者を苛めると何倍もの不幸に会うという家の言い伝えの通りとなりました。アンナ叔母を助けた母にはもっとすごいことが起こりました。私が先祖供養をするキッカケになったことを次回書きます。

さらえまか: 祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)