2010年1月3日日曜日

柿食えばインフルエンザこわくない

かつて仙人お爺さんが上ってきた西口の斜面には10本近い富有柿の木があった。普通の木が共存できない笹の中に生えていたのです。笹は斜面の崩落を防ぐ目的で先祖が植えたものらしい。富有柿は樹勢が強くあんな笹の中でも実をつけると思っていた。小学校の高学年ごろから果物の皮をむくことを覚えてよりおいしく食べられるようになり、11月になり富有柿が赤くなると毎日食べていたようです。小学生が包丁で柿の皮を剥くとは少し早すぎるかも知れませんがそれほど子供のころから食い意地が張っており懸命に練習したのでしょう。働き始めて数年後父親が亡くなると年々西口の富有柿の実が小さくなり甘みが弱くなった。そしてついには実をつけなくなった。親不孝の極みとしてようやく父親が富有柿周辺の笹を刈り取ったり肥料をやったりしていたのをはじめて知ったのです。生きているうちにどうしてお礼を言わなかったのかと富有柿を見るたび悔やまれます。インフルエンザの項でも書いたように子供のころは風邪には本当に強かった。インフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)  
「柿の実が赤くなると昔の漢方医の顔が青くなる。」柿を食べるころになると病人が減って医者が困るというたとえです。柿の実にはビタミンC豊富だのいわれていますが実際何が含まれているのかわからないのです。 確かなことは病気に対する抵抗力がある言い伝えと自分が風邪を引かなかった事実です。ここは素直に柿食えばインフルエンザこわくないを信じます。コラーゲンを入力、人体をブラックボックスと考えれば
 富有柿のシーズン中は一日3個を目標に頑張りました。まだ風邪はおろかインフルエンザにもかかっていません。

2010年1月2日土曜日

両親を苦しめた農道助成金 

小学校に入学前後のころでしょうか、実家は沼田10枚ほどの棚田を所有しています。棚田の上は雑木林と少しの赤松の森があります。現在はすべての赤松が枯れてマツタケはでません。当時は山越えでいかないと棚田にいけませんでしたが政府が農道をつけると工事の助成金が7割下りるという話が持ち上がったのです。米の収穫時水を抜けない沼田はあまりにも手がかかり両親は休耕田としていくばくかの助成金をもらっていました。その頃新しい商売を始めて沼田の棚田に米を植えるような余裕がありませんでした。しかし子や孫の代のために4軒で助成金を受けて軽トラックが通れるような農道をつけることに同意したのです。農道の受益者は4軒です。工事費の7割が政府負担で残り3割を農道の受益者4軒で負担しなければなりませんでした。残り3割といってもかなりの金額だったと聞いています。全員一律の25%というわけでなく3割の負担を巡って4家で何カ月も集会が開かれたのです。集会には寡黙な父に代わって母がでました。
 最初の話し合いの場でM家が我が家に3割の7割負担を提案してきたのです。残りの3家はそれぞれ1割負担でした。当然母とM家の嫁と紛糾して何カ月ももめました。
我が家が7割負担すれば残りの3家は1割負担でいいわけでM家の提案に我が家以外全員賛成でした。どうもM家が集会の前に根回しをしていたそうです。当時我が家は農業で食べていけないので未経験の農家相手の商売を始めていました。当然初めから順調なわけがなくすでに借金がかなりあったと聞いています。結局3家の主張に追いまくられ我が家は7割負担を泣く泣く飲んだのでした。山をブルドーザーで切り開く7割負担など現金であるはずもなく孫子の代のためと借金を重ねたのです。
 そこから子供時代の悲惨な生活が始まりました。自分はそれほど悲惨と思っていませんでした。食べ物に不自由しなかったからです。米と野菜は農家の特権でいくらでも食べられるのです。家計のことに思考が回るほど成長していなかったからでしょう。今から考えてみるとお盆に商売のために買った物資の集金人がやってくると両親が裏口に隠れるのです。学校に着て行く服は母の手縫いでした。父は日本酒が好きでおいしいコメがとれる沼田に再び田植えをしてその米で日本酒を造っていました。(数年続きましたが当然時効で本人は他界しています。)お金で酒を買えなかったのです。サバの煮つけを食べさせられたのもこの頃です。両親の夫婦げんかもこの頃多かったと思う。夕食時には毎夜母からM家の悪口を聞かされました。母は夕食時我が家が分担金をめぐった話し合いでどのように自分が追い詰められその都度M家の嫁からどんなことを言われどんなに惨めな気持ちになったか、また7割分担が当然のことで感謝されなかったかを繰り返し同じことを話した。家のためにせめて4割分担になるよう精一杯頑張ったがどうにもならなかったということでしょう。M家は我が家にとって極悪人でした。
 それから三年後母の親族で都会の遊休地に高速道路が造られたらしく大金持ちになった親族が現れました。我が家の困窮ぶりを憐れんで全部の借金を肩代わりしてくれたのです。両親は金利が付かない借金を数年かけて返済しました。貸した親族は母に貸すと言ったが本当に元金が返ってくると思わなかったそうです。
 親族への借金返済を終えたころからようやく商売で食べていけるようになった頃です。私の高校入学前と思いますが、突然M家が我が家の借金の数倍の借金をしたことが母の耳に入ってきたのです。借金の正確な額と年末に払わなければならない金利まで両親が知っていたのです。田舎のことで融資係の人が漏らしたのですが、もしこれが知れれば好意でしてくれたその方が何らかの罪でM家から訴えられるかも知れませんのでM家の事業について、また我が家の商売について詳しく書けません。M家は3家で共同事業をしていたのですが何かで仲たがいして共同事業から離れて販路の獲得に失敗したのが原因らしいのです。当然母はここぞとばかり近所の友人にM家の悪口を言いふらしたでしょう。「M家の嫁は気ままで我慢が足りない。自分の都合のいいことばかり言いすぎる」などです。夕食の話題はM家の借金の話に変わりました。あの辛酸をなめた苦しい借金生活を決して両親は忘れていませんでした。
 さらに数年後M家は返済のためと焦ったのか設備投資が多額になる農業を始めました。収穫物は高く売れるのですが、失敗すると傷が大きいというものです。出来の良い息子さんが2人大学に在学中だったのも理由でしょう。その多額の借金で投資した設備が台風の被害にあい全壊しました。同じ地区で他にも賭博的な農業をしていた農家が2件ほどありましたが、全壊したのはM家の設備だけでした。運悪く風の道にあったのかも知れません。高額の収穫物で返済するつもりだった借金が減らず利息で増えていったのです。結果的にさらに多額の借金がM家を襲ったのです。母は今度は融資係の人に贈り物までして借金の額と金利担保物件を聞きだしたそうです。
 父が他界する2,3年前M家への融資が担保を上回ったらしい。会社なら破産ですが農業で作った借金で担保の農地を処分されることはないそうです。近所の人はいつM家が夜逃げして都会に出ていくか噂をしていたそうです。当時は健康なら大都会に出れば仕事がいくらでもありました。農家よりずっとましな暮らしができたのです。結局息子さん2人が奨学金で行っていた大学を中退して働いたお金でM家の借金を返済したそうです。我が家が苦しんだ期間は福の神が現れるまで3年でしたがM家は10年以上で金額的には数十倍以上でした。
 M家の隣のK家に御隠居がいました。私が幼いころから顔を合わせると優しい言葉をかけてくれたよい人です。父が他界する10年ほど前、父の弟がK家の御隠居の孫娘を軽トラックで当ててしまったのでした。叔父は病院に連れて行き治療費お見舞い金も出したのですが怪我の場所が顔で小さな傷が残ったのです。後遺症もなく全快しているのですが何分女の子で、K家の御隠居の息子が補償金のことで叔父ともめていたそうです。M家の困窮ぶりを一部始終見てきたK家の御隠居が亡くなる半年前ほど病床の枕元に息子を呼び「〇〇の家ともめるな。あの家は代々自分の欲のために人を困らせたことはないんだ。昔世話になった。もし〇〇の家が困ることがあれば我が家が率先して〇〇の家を助けるんだ。わかったな」と言い置いて亡くなったそうです。K家の御隠居の遺言で叔父の災難は去ったのです。K家の御隠居はM家の困窮ぶりを見てきたはずですが、なぜもめるなと遺言した理由は一切伝わってきませんでした。M家の不運はありそうなケースですが、ありえなさそうなのは守秘義務で守られるはずの融資金額と金利まで伝わってきたことです。融資金額を知っていた方は我が家とM家との関わりなど知らないのです。しかも農道の助成金などその当時から10年近い昔の話です。

寒波に負けない里芋の年越し(親芋のリサイクル)

 寒波にあった里芋です。南方を原産とする里芋は霜で葉っぱがしおれています。このままでは肝心の小芋まで霜の被害にあいそうです。
 昨年の芋です。寒波を避けるため屋内に入れたものです。食べる前にカンパでなくカンソウにやられました。多くの芋が干乾びたのです。昨年の轍を踏まないために寒波と乾燥を避ける工夫をしました。
親芋の周囲には大粒の小芋がびっしりついています。4年連作ですがケヤキの落ち葉の堆肥のおかげか最高の出来です。土も日照りが続いても水分を含んで黒ずんでいます。完全有機栽培が実ってきました。
小芋の周囲を注意深く掘ります。そしてスコップで小芋がバラけないように深く掘り起こしました。
小芋と親芋がくっついたまま土も落とさないで穴に埋めます。
穴を稲藁でふさいで上に土をかけます。これで寒波に負けないで年を越せるつもりです。親芋は食べないで来年の種イモにするつもりです。栄養のお弁当が大きい分スタートダッシュが強く切れて大きな葉っぱが、南側が道路の家庭菜園の春の陽光を逃さないでしょう。
来年は種イモを用意する必要がなくリサイクル再利用と一石二鳥です。

2010年1月1日金曜日

風穴があいて白い布の向こうが見えた。御正宮御簾を上げて下さった。(イメージ図あり)

 天照という漢字は小学校に行く前に最初に覚えた字でした。当然意味は知りませんでしたが。実家の煤で黒くなった神棚に赤字で天照大神と書かれたお札が入れてあったからです。親のいうことを聞かないと天照大神の罰が当たると脅されたものです。本当に怖かった。内宮は天皇家の神社で神武天皇も祭られているとかを聞きました。それならぜひお願いがあり聞いてもらえるかもしれないと考えて伊勢参拝に行きました。  手前が現在使われている仮橋です。向こうの木の橋桁が間もなく完成の橋です。
 参拝前に手を清める五十鈴川の手洗い場です。お願いを叶えてもらうために手酌と五十鈴川と2度清めました。川の中の一番奥の黒い石には数匹のアユが付いていました。でも群れアユで私の腕で釣るのは無理です。右手に照葉樹林の原生林が見えはじめると「私パワーを感じる、テンションが上がってきた」などと若い女性の声が耳に入っててきた。でも自分は鈍いのか空気の重さもパワーも何も感じませんでした。縄文人の生活の場であったこの照葉樹林の原生林を見て返って懐かしさと落ち着いた気分なのです。どこかで見た景色と思ったらこの近くの宮川上流大杉谷の源流、西の谷で見た気がします。20年近い前の記憶で頼りないのですがそんな気がします。内宮の神様はあの弥生時代の米倉のような神殿よりもこの原生林に御座しますのではないでしょうか。カメラはバックにしまいました。天皇家の神様は心が広いので御正宮にカメラを向けた程度では罰を与えまいかもしれませんが肝心のお願いを聞いてくれないかもしれません。  やがて参道がつき当たり左上方に石の階段があり、これを上ると御正宮の拝殿でした。伊勢神宮のお願いをどうすべきかを書かれたブログを拝見したことがあります。国家の安寧と国民の幸せを祈願すべきと書いていました。でもそのような大それたことは出来の悪い国民のため日々御宸襟を悩ませ奉るお方がなさることです。私のような庶民は個人的なお願いでもいいのではと思います。白い布の前ではすでにお二人が国家の安泰を?祈願されていました。白い布は縦方向に3枚あり空いているのは向かって左だけでした。大きなさい銭箱があり集金のためというより参拝者が白い布を触るのを防ぐ目的のようです。左端でたった一つを一心に祈願しました。 「天照大神様、神武天皇様お願いがあります。わが先祖は○○県◎◎に於いて居を構え明治の神社統合まで近くにあった小さな祠のような神社を拠り所として毎年の祭礼、豊年祭を営み1000年以上神武天皇様ゆかりのお方を祭った神社を守ってきました。先祖の生業は猫の額のような田畑を耕してきた水飲み百姓です。(ここで実家周辺の地形と現在集落の共有地となっている元神社があったとされる集会場などをイメージしました)ところが明治の御代になってお上の神社統合政策により数本あった樹齢1000年以上の神木が切り払われ隣村の神社に統合されたのです。呼べば聞こえるような家近くにあった代々守っておまつりしてきた心の拠り所であった神社がなくなったわが先祖の辛さを察してください。つきましては神武天皇様わが先祖の御冥福でなかった、冥福をお願いいたします。また冥界をさまよい成仏していない先祖がいましたたらどうか偉大なる御徳によりお救いください。私には自分の先祖が今どのようになっているか不明なのです。願いはそれだけです。眉間の奥が痛くなるほど念を込めて祈りました。
 目を開けると右側のお二人はいなく、なんと目の前の白い布に大きな穴があいているのです。そして風穴の中で黒いものが迫ってきたのです。たとえて言うなら車を運転中バックミラーで後ろの大型ベンツが車間距離を詰めてくるようなものです。車間距離が縮まるとともにヘッドライトの間の黒いラジエータが大きくなってくるような感覚です。これは想像するに1m向こうの白い布に焦点があり風穴が開いたことにより、急に50mほど離れた黒い門に焦点を合わせた結果の錯覚と考えます。門の見た目は黒かった扉の中央にヒスイのような色がありこれが何なのか必死で考えた。古い屋根瓦に生える苔や地衣類にこうした発色のものがあります。あの時はそう考えましたが神官が苔などを放置するはずがなく、翡翠色は銅版の緑青とするのが自然のようです。門の屋根は茅葺で黒ずんでいました。門の両脇は京都で見た柴垣でした。中を守るというより中を隠して見えないようにするのが目的のようです。門の翡翠色に注意が集中してしまい他はよく見ていないのです。翡翠色を考えているうちに風穴は閉じられた。

 もし願いがかなって、先祖が元気になり自分の運気が上昇すればお礼参りをしなくてはと考えながら帰路につきましたが、参拝後2カ月しか経っていないのに現在もう一度今年中に伊勢参拝しなければならなくなりました。さすがお伊勢さん願いを叶えてくれたようです。

2009年11月15日日曜日

マイタケとの格闘

 マイタケの人工栽培に成功したのはそう古いことではありません。秋の山で見つけた人がうれしくて舞い上がったから舞いたけというキャッチフレーズで売り出したらしい。何がそんなにうれしいのかというと強い旨みがあるとのことでした。店頭に並んだ初期の頃その強い旨みとやらをぜひ賞味したいとさっそく味噌汁、吸い物、鍋料理に使いました。1年近く機会があればマイタケを料理に使ってみました。でも結果は強い旨みは出せませんでした。味噌汁に入れれば黒い汁が出て見た目が悪くなり旨みが感じられないのです。ついに料理方法が分からないまま舞い上がるほどの値打ち、強い旨みなどは人工栽培を成功させたキノコ業者の方便で人気を煽るために誇大な表現に走ったのだろうと結論付けたのです。そしてマイタケへの興味を失ったのです。

ある時カウンターに座り目の前で一品づつテンプラを揚げてくれる天ぷらコースを食べました。天ぷらセットで出されるのでなく揚げたての熱いうちに食べる高級コースです。確か生シイタケの天ぷらの次に出されたと思いますが、マイタケですと和紙の上に置かれた天ぷらを見るとそれまでの失敗のシーンが頭に浮かび美味しいからでなくもったいないから食べようとしか考えなかった。まったく期待しないで口に入れたのにシイタケ以上の旨みがあったのです。その時しみじみと脳裏をよぎったのはそれまでは水を使った料理だった。マイタケはあまりお米がとれない山村の山の幸です。中国のような農産物豊かな大平原でもない日本の山村で昔から照明にも使える高価な油を使った料理が普及していたとは考えられません。安価ななたね油が開発されたのが戦国時代の終わりだそうです。庶民に油料理が普及したのは明治以降かも知れません。昔からあったマイタケ料理は当然味噌汁、吸い物などの水を使った料理のはずです。あくまで山奥い山郷をイメージしてみそ汁などに使って試食したのでした。水を使う料理では60度前後の低い温度でマイタケは旨味を出すそうです。とにかくテンプラがおいしかったので家に帰って真似をしたところ旨みが強く感じられました。
 もう一つの販売促進のキャッチフレーズは免疫力アップです。マイタケ成分のなんとかがガンの免疫療法に聞いたかという紹介記事があった記憶がありました。現在の科学ではキノコ、植物に含まれるたんぱく質のすべてを分析するのは不可能なのです。ですから発見できた成分の一つを捉えて免疫力を強めると主張しても他の未知の含有成分で打ち消されるかも助長されるかもわからないのです。たった一つの有効成分に注目するのは意味がないことかも知れません。マイタケは油を使うという新しい発想がこの野菜炒めの作成に役立ちました。
 ルーシー原人以来、人類は地上では大戦争の繰り返しでした。動乱→帝国の崩壊→大戦争→新帝国の成立の繰り返しが歴史でした。しかしどんな大戦争による政府、朝廷ができても私のような庶民にはあまり関係のない戦いでした。しかし庶民の体の中では駆逐するか生き残るかの激しい戦いの歴史があったのです。水虫などのように人体と共存できる病原菌以外は、侵入した病原菌、自分の細胞から発生した新生物と免疫との大戦争です。もし私の先祖が子孫を残す前にミクロの決戦に負けていれば自分が存在しないのです。今世間を騒がせている新型インフルエンザにも先祖は何度も遭遇して駆逐したからこそ自分があるのです。既存のインフルエンザも過去には新型インフルエンザであったはずです。欧州で大流行したペストも人類が初めて遭遇した未知の病原菌でした。日本の京都にも流行病(ハヤリヤマイ)という病名で大勢の病死があったといつの時代にも記録されています。テレビなどによると人類が遭遇して抗体をもった歴史が自分のDNAに記録されているとのことです。私も人様より、よりよい暮らしをするという地上での競争からは落ちこぼれましたが、免疫戦争では勝利して今のいのちをつないでいるのは確かです。もともと生まれながらにしてどんな病原に遭遇しても生き残れる素質を持っているのです。そしてほんの少しの栄養などの助けがあればもっと強力な免疫を持つことができるはずです。そのほんの少しの自分で工夫した天然のサプリメントがインフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)であって欲しいのです。

2009年11月1日日曜日

インフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)

冬なのに暑いと感じて診察室に行くと「その白線に沿って歩いてください」数歩白線の上を歩いたつもりが「インフルエンザです。すぐにタクシーで帰宅して下さい。電車は危険です。帰宅は健康管理医としての業務命令です。同僚を感染させてはいけません。」そんなわけで対症療法の薬で自宅でインフルエンザの治療に専念することになりました。20代後半の頃です。治療に専念するといっても薬を飲んで寝るだけです。処方していただいた薬を飲むと眠くなりました。床に就くと背骨が痙攣するようにガクガクとなり天井を見ているとまだ日の高いお昼なのに夕方のように視界が暗くなりました。奥歯が鳴るように震えこのまま眠ると二度と目覚めないかもしれないと怖くなった。それから三日三晩食事とトイレ以外は眠り続けました。それまで、今までもそうでしたがどんなに疲れていても睡眠は12時間が限度です。それ以上は寝れないのですがこのときばかりは三日72時間以上連続して眠れました。本当に体の具合が悪い時はいつまでも寝れるものです。そして更に具合が悪いときは永遠の眠りにつくのでしょう。水が飲みたいと目を覚ました時は敷布団とその下マットレスまで汗で濡れていました。そして水が飲みたくて仕方がなかったのです。起きてから半日ほどとても爽快な気分です。体が免疫がウイルスに勝ったのだ。悪い毒素は大量の汗とともに追い出したから気持ちがいいのだと納得しました。大酒の後アルコールが抜けたような爽快感の中で、高校を卒業して10年にもならないのに体力が落ちたのをしみじみ感じた。通学の帰路、見覚えのある場所で立ち止まると朝登校時に咳をして鼻をかんだのを思い出したのでした。朝咳や熱があっても昼には治っていました。風邪は学校で治していました。それが視界が暗くなるようなインフルエンザにかかるほど体力が落ちていたのです。その後これほどひどくはありませんでしたが、二三年に一度のペースでインフルエンザをもらっていました。どうしたものかといろいろ考えました。アフリカ東部で発見された原人ルーシー、アダムとイブなどの祖先から代を重ねていま自分が生きているということは医師の処方箋より優れた副作用のない最高の薬を体内にあることに気が付きました。祖先の一人でも病気でなくなっていれば自分が存在しないからです。細胞は普通役割仕事があり肝臓の細胞なら生きていくために毒素などの分解をして生命維持に貢献する仕事をしています。日頃はリンパ節などに隠れて仕事もしない遊び人の生き物ですが、外敵を見つけると脳に体温を上げる命令を出し筋肉などからATPを奪い取り(背骨が痙攣したのは背筋からATPを奪い取ったのでしょう)爆発的に増殖する免疫のことです。高校生の時代はこれが強くてインフルエンザが増える前に感染した細胞を破壊したが体質が変わり撃退するまで時間がかかるから仕事を休まなければならなくなったのと思い至りました。
 そこで免疫力アップの食事を試行錯誤の結果完成させたのが以下のレシピです。
材料 5品  オリーブオイル 味を良くするため岩塩 ピーマン 玉ねぎ マイタケ
これだけです。これらは年中いつでもスーパーで売っています。玉ねぎは地下の食べ物で中国風に陰陽で分ければ陰です。マイタケも日陰のキノコで陰陽で分ければ陰です。実症陽症の自分の体質を中庸にしてくれると考えました。味に関してはピーマンは苦味 玉ねぎは甘み マイタケは強い旨みと三つそろっており量の調整で自分好みに変えられる。そして大切なのはおいしいと感じるものを食べることです。まずいと思うと継続できません。青ピーマンが苦手な方は黄色や赤に変えるといいかも知れません。
ピーマン 玉ねぎ マイタケを千切りにします。要点は太さを均一にすることです。熱が均一に伝わります。ピーマンだけはアクがあるので穀物酢を入れた沸騰水で湯通しします。
穀物酢を入れた沸騰水で湯通したピーマンをパンチざるで受けてピーマンが暖かいうちにすぐにオリーブオイルを引いたフライパン(フライパンは油蒸気が上がるまで熱します)にぶちまけます。ジューと音が鳴りピーマンの水分を飛ばします。フライパンの温度がピーマン周囲の水で100度前後に下がるはずです。そこで千切りした玉ねぎを30分以上空気にさらしたのとマイタケを入れます。千切りした玉ねぎを30分以上空気にさらすと血液サラサラ効果があるそうです。 このマイタケと玉ねぎの千切りを加えることで100度前後からマイタケの旨みを出す温度60度前後に下がります。フライパンと違って本格的な中華鍋です。1mm程度の薄い鉄板を半球状に加工しています。底に溜められる余熱はほとんどありません、
岩塩で味付けして完成です。夏期も2週間に一度のペースでこれを食べるようになってからインフルエンザにかかったことはありません。ただし他の方に効果があるか、新型インフルエンザに効果があるかは保証の限りではありません。自分はこれで予防できると信じていますが。

2009年10月24日土曜日

内宮のお神酒をどうぞ

 外宮、内宮でご先祖のご冥福を切願してきました。内宮の帰り道でお神酒を買いました。背景が暗くローソクの火が強調されやけに明るいのは真夜中の墓前だからです。
ご先祖にお酒の好きな方がおられたらと供えました。普通のお酒ではなく休憩所で売っていた伊勢神宮のありがたいお酒なのです。明治の神社統合まで代々神武天皇ゆかりのお方を祀った社の氏子であった先祖がきっと喜んで下さると信じてお供えしました。お酒の香りがわかるよう備前焼の口の大きい器に入れました。他のお墓に休んでおられる私のご先祖もお神酒を目当てに遊びに来てくれればよいのです。 備前焼の中のお神酒は透明ですが白い器に入れると黄色です。翌日の夕方にはアルコールが飛んでいて少し酸っぱかった。防腐剤はないようです。撮影の後、口に含んでバケツに吐き出しました。もったいなかったですが、飲み込むと飲酒運転になります。