2010年3月21日日曜日

投げてから白球が消えた?そしてバッター空振りした

 第82回選抜高校野球が開幕しました。開幕ゲームは左投手が投げました。サイレンが鳴って、伸びのある切れのよいストレートが左手からリリースされキャッチャーミットに向かうはずですが、途中で球が消えたのです。本当に消えたように見えました。糸を引くようなピッチャーといえばパリーグのダルビッシュ投手ですがそれ以上の逸材が現れたのかドラフトでは大騒ぎになると想像しました。ダルビッシュ投手でもそれは切れのある球を投げますが途中で見えなくなるということはありません。漫画的な新しい変化球か、それとも黄砂のせいか。もうひとつ恐ろしい考えが浮かびました。血糖値が上がり、眼底出血で自分の視力がなくなったかもしれない。2球目の直球も途中で消えるのです。
 眼底出血の恐怖は次のバッターが打席につくまでつきまといました。理屈がわかり恐怖から解放されたのです。左投手の球筋が「第82回選抜高等学校野球大会」の看板を通る時、白い虫がマタタビの白い葉っぱの上を歩くようにボールが見えなくなるのでした。バックスクリーンに白い服を着た人が入ると球審がゲームを中止させるのと同じです。バッターにはこの看板は関係ないでしょうが、サウスポーのテレビ中継のためにこの看板は移動すべきでしょう。

2010年3月13日土曜日

ジャガイモは来春を知っていた(芽を出した)

年末植えたジャガイモが今日地上に芽が出たのを見つけました。

昨年12月27日植え付けました。それがやっと今日発芽を発見しました。昨年は深さ5cmほどに芋を植えました。この5cmの深さが間違いだったと収穫時に判明したのです。5月末に新しい芋が地表近くで成長していくつかが日光の洗礼を浴びて表面が黄色白色でなく青い緑色の食べたくないジャガイモができたのです。そこで2009/12/27は20cmと深く植え付けました。そのせいか2009/01/25→2009/03/20発芽と2カ月で芽が出たのに今年は二ヶ月半かかりました。深植えの分は工夫したつもりです。下の写真は植えた後表面をビニールシートをかぶせたのです。地表が霜に当たらないようまた晴れた日は熱を蓄えるようにしたつもりです。それにより早く発芽して枯れる6月まで少しでも長く芋を生産してほしい願いでした。結論とすればビニールシートは役に立たなかったかも知れません。今年は11月の末に植え付ける予定です。ビニールシートもより熱を吸収する黒にしようと思います。
強風に負けないためビニールシートの両端を大きな石で押えました。
心配なことがあります。今年で連作になります。家庭菜園と狭い菜園ではやむをえないことです。連作の害を避けるため自家製の有機肥料を根元に撒きました。茶葉や野菜くず、柿の皮など果物の皮が原料です。

 次にすべき作業は芽かきです。これをしなければ進歩のない人間になります。

2010年2月7日日曜日

草原の掟と日本で要求される品格

 「青い狼」によると草原では戦いに勝った側が負けた側のすべてを所有したらしい。所有とは財産である家畜、子供を産める女性、戦士の生命を自由にすることです。戦士を戦後処刑するのも子供を産める女性を女奴隷にするのも勝者が決めることができたそうです。一方負けた側はどんな屈辱、恥ずかしいことをしてもとりあえず自分が生き残ることを優先するそうです。人を生物と単純化すると生物は自己のDNA遺伝子をより多く残すように行動するという原則通りです。生き残り子孫を残しておけば捲土重来、復讐でその時の恥を雪げる可能性が残るのです。日本でも大名が戦国時代、滅亡が確定した側の家来が土壇場で裏切り、返り忠で家名を残そうとしたのは大きな大名が滅んだときよくあった。とりわけ生きていくのに厳しい草原では男女とも節を守るため自決などといった行動は理解の圏外にあったそうです。遊牧民は長城の内側つまり漢民族の将軍が遠征してきて敗戦時に主の王に面目ないと自害するのがどうしても理解できなかったそうです。
 日露戦争で捕虜にしたロシア兵を炭鉱などで強制労働をさせたとは聞いたことはないし、欧米は第二次大戦でも降伏した日本兵を自国のため強制労働をさせなかった。収容施設から逃亡をしない限り人道的な扱いを受けたのです。不可侵条約を破って敗色が濃厚となったとき攻撃して捕虜をシベリア強制労働というのは匈奴時代の草原の掟そのものです。確かにその国には草原があり遊牧民もいるようです。
 相撲のことは詳しくないのですが、勝者は敗者があってのみ存在するのは確かです。相手が立ち会ってくれたから今日運良く勝った。お互い厳しい勝負の世界で生きているんだ。明日は負けて賞金をもらえないかもしれない。そのように考えることができたなら行司から賞金を受け取る時、負けた相手を親の敵のように睨むこともないのです。「次も俺が勝つ。お前には負けない」とでも言っているようににらむ様子は見ていて気分のよいものではなかった。立ち会った力士の間柄に個人的な恨みがあると考えにくいからです。鬼になって戦い戦後も鬼のままというのは日本ではなじまないようです。
 日本で要求される品格とは勝負が決まるまでは「鬼になって」必死で勝負にこだわるが、勝負が決まってからは負けた力士に対する礼儀を外見だけでも払えということでしょう。確かに賞金を受け取る時、負けた相手を睨見つけるのはあの強い力士以外、見かけなかった。一番いいのは心も品格を持つのがいいのだが、それはとても難しいので立ち振る舞いだけでも演技せよということでしょうか。相手が土俵を割り、勝った瞬間から鬼のような心は捨てるべきでしょう。彼を育てた親方の徳が小さいのかな。彼のよいところは交友する芸能人が多く評判が良い点です。うその演技ができなくとても正直な人だからでしょう。今後騒ぎが収まったあと日本語はできるしタレントとして芸能界で生きていけるかもしれません。正直な人は安心できます。

2010年2月1日月曜日

廃材のリサイクルで作業台を作る

2005年築30年以上の古家をリサイクル再生利用のため、リフォームをしました。家の中に車庫を作ったために使った梁材木の残りです。長さ50cm、幅29cm、厚み10.5cmと大きくこれを求めようとしてもなかなか売っているのを探すのは難しいでしょう。車庫を作ってくれた大工さんが捨てるつもりだが欲しいなら置いておくとわざわざ知らせてくれたのです。最初に浮かんだ使い道は鋸で木材、金属を切るときに使う台です。厚み10cmは床を傷つけずにノコギリを使えます。大きくて安定感は十分です。穴を開ける台にもなります。中国人なら丸木のまな板の発想から中華包丁のまな板の代わりと発想するかもしれません。
 幅は30cmありますが、一つだけ台として使うのに難点があります。これは製材所で大きなノコギリで切り出した材木のままで表面が毛羽立っているのです。毛羽立った表面がほこりを呼び寄せ撮影前はもっと汚かったのです。そのまま公開するのは恥ずかしいので掃除機でチリ、ホコリを吸い取ってから撮影しました。
 表面を手で押さえるとチクリと棘が刺さる時があります。小さいトゲやホコリを吸い寄せる性質を変えるのはカンナ掛け以外ないのは明らかです。しかし大工でないので桐のまな板以外削った経験がありません。正月に今年の運勢読みとしてチャレンジしました。うまく削れると一年安泰、失敗すれば波乱予想の一年としました。

杉材のようですが何とか4面削れました。やはり桐より想像以上に削りにくかった。腹筋が酷使されお腹が痛くなりました。これが杉でなくもう少し堅いヒノキなら自分の腕ではカンナ掛けは無理でしょう。上の写真では丸い穴が開いていますが大工さんがこの台の上に板などを置いて穴あけの台に使ったようです。
杉台にもう一工夫を加えます。薄い板きれをネジで付けました。
これに桐のまな板をのせてカンナがけをします。取り付けた板きれは滑り止めです。これまで畳とすり切れたフスマの敷居の段差をカンナ台にしていましたがこれで本格的なカンナ台の完成です。
 杉と違って桐のまな板はスカスカ腹筋もあまり使わずに楽に削れました。丸くなった敷居の段差と違って桐のまな板が安定します。杉台の手前の端を正座して膝小僧で押さえてカンナ掛けをします。下のカンナの左に写っているのは削りくずと柿やミカンの皮を細かく刻んだものです。リサイクルして南側が道路の家庭菜園に入れる堆肥の原料にします。リサイクルで生ごみを出さない 日々土作りから料理はスタート
穴あけの台や鋸の台に使います。チラシの折り込みを敷けば安定した大きなまな板にも使えます。杉材、削りくず、ミカンの皮などをリサイクルして有効資源に変えたのち利用した結果の受益者は自分です。リサイクル業者を儲けさせたりどのように利用されるかわからない人任せのリサイクルとは違って、再利用するのが自分なら最後まで見届けられます。ゴミとまな板購入費用が減って助かるのは自分なのです。

廃材をリサイクルして、まな板のリサイクルを楽にできるリサイクル道具を作りました。

2010年1月3日日曜日

柿食えばインフルエンザこわくない

かつて仙人お爺さんが上ってきた西口の斜面には10本近い富有柿の木があった。普通の木が共存できない笹の中に生えていたのです。笹は斜面の崩落を防ぐ目的で先祖が植えたものらしい。富有柿は樹勢が強くあんな笹の中でも実をつけると思っていた。小学校の高学年ごろから果物の皮をむくことを覚えてよりおいしく食べられるようになり、11月になり富有柿が赤くなると毎日食べていたようです。小学生が包丁で柿の皮を剥くとは少し早すぎるかも知れませんがそれほど子供のころから食い意地が張っており懸命に練習したのでしょう。働き始めて数年後父親が亡くなると年々西口の富有柿の実が小さくなり甘みが弱くなった。そしてついには実をつけなくなった。親不孝の極みとしてようやく父親が富有柿周辺の笹を刈り取ったり肥料をやったりしていたのをはじめて知ったのです。生きているうちにどうしてお礼を言わなかったのかと富有柿を見るたび悔やまれます。インフルエンザの項でも書いたように子供のころは風邪には本当に強かった。インフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)  
「柿の実が赤くなると昔の漢方医の顔が青くなる。」柿を食べるころになると病人が減って医者が困るというたとえです。柿の実にはビタミンC豊富だのいわれていますが実際何が含まれているのかわからないのです。 確かなことは病気に対する抵抗力がある言い伝えと自分が風邪を引かなかった事実です。ここは素直に柿食えばインフルエンザこわくないを信じます。コラーゲンを入力、人体をブラックボックスと考えれば
 富有柿のシーズン中は一日3個を目標に頑張りました。まだ風邪はおろかインフルエンザにもかかっていません。

2010年1月2日土曜日

両親を苦しめた農道助成金 

小学校に入学前後のころでしょうか、実家は沼田10枚ほどの棚田を所有しています。棚田の上は雑木林と少しの赤松の森があります。現在はすべての赤松が枯れてマツタケはでません。当時は山越えでいかないと棚田にいけませんでしたが政府が農道をつけると工事の助成金が7割下りるという話が持ち上がったのです。米の収穫時水を抜けない沼田はあまりにも手がかかり両親は休耕田としていくばくかの助成金をもらっていました。その頃新しい商売を始めて沼田の棚田に米を植えるような余裕がありませんでした。しかし子や孫の代のために4軒で助成金を受けて軽トラックが通れるような農道をつけることに同意したのです。農道の受益者は4軒です。工事費の7割が政府負担で残り3割を農道の受益者4軒で負担しなければなりませんでした。残り3割といってもかなりの金額だったと聞いています。全員一律の25%というわけでなく3割の負担を巡って4家で何カ月も集会が開かれたのです。集会には寡黙な父に代わって母がでました。
 最初の話し合いの場でM家が我が家に3割の7割負担を提案してきたのです。残りの3家はそれぞれ1割負担でした。当然母とM家の嫁と紛糾して何カ月ももめました。
我が家が7割負担すれば残りの3家は1割負担でいいわけでM家の提案に我が家以外全員賛成でした。どうもM家が集会の前に根回しをしていたそうです。当時我が家は農業で食べていけないので未経験の農家相手の商売を始めていました。当然初めから順調なわけがなくすでに借金がかなりあったと聞いています。結局3家の主張に追いまくられ我が家は7割負担を泣く泣く飲んだのでした。山をブルドーザーで切り開く7割負担など現金であるはずもなく孫子の代のためと借金を重ねたのです。
 そこから子供時代の悲惨な生活が始まりました。自分はそれほど悲惨と思っていませんでした。食べ物に不自由しなかったからです。米と野菜は農家の特権でいくらでも食べられるのです。家計のことに思考が回るほど成長していなかったからでしょう。今から考えてみるとお盆に商売のために買った物資の集金人がやってくると両親が裏口に隠れるのです。学校に着て行く服は母の手縫いでした。父は日本酒が好きでおいしいコメがとれる沼田に再び田植えをしてその米で日本酒を造っていました。(数年続きましたが当然時効で本人は他界しています。)お金で酒を買えなかったのです。サバの煮つけを食べさせられたのもこの頃です。両親の夫婦げんかもこの頃多かったと思う。夕食時には毎夜母からM家の悪口を聞かされました。母は夕食時我が家が分担金をめぐった話し合いでどのように自分が追い詰められその都度M家の嫁からどんなことを言われどんなに惨めな気持ちになったか、また7割分担が当然のことで感謝されなかったかを繰り返し同じことを話した。家のためにせめて4割分担になるよう精一杯頑張ったがどうにもならなかったということでしょう。M家は我が家にとって極悪人でした。
 それから三年後母の親族で都会の遊休地に高速道路が造られたらしく大金持ちになった親族が現れました。我が家の困窮ぶりを憐れんで全部の借金を肩代わりしてくれたのです。両親は金利が付かない借金を数年かけて返済しました。貸した親族は母に貸すと言ったが本当に元金が返ってくると思わなかったそうです。
 親族への借金返済を終えたころからようやく商売で食べていけるようになった頃です。私の高校入学前と思いますが、突然M家が我が家の借金の数倍の借金をしたことが母の耳に入ってきたのです。借金の正確な額と年末に払わなければならない金利まで両親が知っていたのです。田舎のことで融資係の人が漏らしたのですが、もしこれが知れれば好意でしてくれたその方が何らかの罪でM家から訴えられるかも知れませんのでM家の事業について、また我が家の商売について詳しく書けません。M家は3家で共同事業をしていたのですが何かで仲たがいして共同事業から離れて販路の獲得に失敗したのが原因らしいのです。当然母はここぞとばかり近所の友人にM家の悪口を言いふらしたでしょう。「M家の嫁は気ままで我慢が足りない。自分の都合のいいことばかり言いすぎる」などです。夕食の話題はM家の借金の話に変わりました。あの辛酸をなめた苦しい借金生活を決して両親は忘れていませんでした。
 さらに数年後M家は返済のためと焦ったのか設備投資が多額になる農業を始めました。収穫物は高く売れるのですが、失敗すると傷が大きいというものです。出来の良い息子さんが2人大学に在学中だったのも理由でしょう。その多額の借金で投資した設備が台風の被害にあい全壊しました。同じ地区で他にも賭博的な農業をしていた農家が2件ほどありましたが、全壊したのはM家の設備だけでした。運悪く風の道にあったのかも知れません。高額の収穫物で返済するつもりだった借金が減らず利息で増えていったのです。結果的にさらに多額の借金がM家を襲ったのです。母は今度は融資係の人に贈り物までして借金の額と金利担保物件を聞きだしたそうです。
 父が他界する2,3年前M家への融資が担保を上回ったらしい。会社なら破産ですが農業で作った借金で担保の農地を処分されることはないそうです。近所の人はいつM家が夜逃げして都会に出ていくか噂をしていたそうです。当時は健康なら大都会に出れば仕事がいくらでもありました。農家よりずっとましな暮らしができたのです。結局息子さん2人が奨学金で行っていた大学を中退して働いたお金でM家の借金を返済したそうです。我が家が苦しんだ期間は福の神が現れるまで3年でしたがM家は10年以上で金額的には数十倍以上でした。
 M家の隣のK家に御隠居がいました。私が幼いころから顔を合わせると優しい言葉をかけてくれたよい人です。父が他界する10年ほど前、父の弟がK家の御隠居の孫娘を軽トラックで当ててしまったのでした。叔父は病院に連れて行き治療費お見舞い金も出したのですが怪我の場所が顔で小さな傷が残ったのです。後遺症もなく全快しているのですが何分女の子で、K家の御隠居の息子が補償金のことで叔父ともめていたそうです。M家の困窮ぶりを一部始終見てきたK家の御隠居が亡くなる半年前ほど病床の枕元に息子を呼び「〇〇の家ともめるな。あの家は代々自分の欲のために人を困らせたことはないんだ。昔世話になった。もし〇〇の家が困ることがあれば我が家が率先して〇〇の家を助けるんだ。わかったな」と言い置いて亡くなったそうです。K家の御隠居の遺言で叔父の災難は去ったのです。K家の御隠居はM家の困窮ぶりを見てきたはずですが、なぜもめるなと遺言した理由は一切伝わってきませんでした。M家の不運はありそうなケースですが、ありえなさそうなのは守秘義務で守られるはずの融資金額と金利まで伝わってきたことです。融資金額を知っていた方は我が家とM家との関わりなど知らないのです。しかも農道の助成金などその当時から10年近い昔の話です。

寒波に負けない里芋の年越し(親芋のリサイクル)

 寒波にあった里芋です。南方を原産とする里芋は霜で葉っぱがしおれています。このままでは肝心の小芋まで霜の被害にあいそうです。
 昨年の芋です。寒波を避けるため屋内に入れたものです。食べる前にカンパでなくカンソウにやられました。多くの芋が干乾びたのです。昨年の轍を踏まないために寒波と乾燥を避ける工夫をしました。
親芋の周囲には大粒の小芋がびっしりついています。4年連作ですがケヤキの落ち葉の堆肥のおかげか最高の出来です。土も日照りが続いても水分を含んで黒ずんでいます。完全有機栽培が実ってきました。
小芋の周囲を注意深く掘ります。そしてスコップで小芋がバラけないように深く掘り起こしました。
小芋と親芋がくっついたまま土も落とさないで穴に埋めます。
穴を稲藁でふさいで上に土をかけます。これで寒波に負けないで年を越せるつもりです。親芋は食べないで来年の種イモにするつもりです。栄養のお弁当が大きい分スタートダッシュが強く切れて大きな葉っぱが、南側が道路の家庭菜園の春の陽光を逃さないでしょう。
来年は種イモを用意する必要がなくリサイクル再利用と一石二鳥です。