
眼底出血の恐怖は次のバッターが打席につくまでつきまといました。理屈がわかり恐怖から解放されたのです。左投手の球筋が「第82回選抜高等学校野球大会」の看板を通る時、白い虫がマタタビの白い葉っぱの上を歩くようにボールが見えなくなるのでした。バックスクリーンに白い服を着た人が入ると球審がゲームを中止させるのと同じです。バッターにはこの看板は関係ないでしょうが、サウスポーのテレビ中継のためにこの看板は移動すべきでしょう。
先祖供養 リサイクル実践 家庭菜園 料理 歴史など


「青い狼」によると草原では戦いに勝った側が負けた側のすべてを所有したらしい。所有とは財産である家畜、子供を産める女性、戦士の生命を自由にすることです。戦士を戦後処刑するのも子供を産める女性を女奴隷にするのも勝者が決めることができたそうです。一方負けた側はどんな屈辱、恥ずかしいことをしてもとりあえず自分が生き残ることを優先するそうです。人を生物と単純化すると生物は自己のDNA遺伝子をより多く残すように行動するという原則通りです。生き残り子孫を残しておけば捲土重来、復讐でその時の恥を雪げる可能性が残るのです。日本でも大名が戦国時代、滅亡が確定した側の家来が土壇場で裏切り、返り忠で家名を残そうとしたのは大きな大名が滅んだときよくあった。とりわけ生きていくのに厳しい草原では男女とも節を守るため自決などといった行動は理解の圏外にあったそうです。遊牧民は長城の内側つまり漢民族の将軍が遠征してきて敗戦時に主の王に面目ないと自害するのがどうしても理解できなかったそうです。
幅は30cmありますが、一つだけ台として使うのに難点があります。これは製材所で大きなノコギリで切り出した材木のままで表面が毛羽立っているのです。毛羽立った表面がほこりを呼び寄せ撮影前はもっと汚かったのです。そのまま公開するのは恥ずかしいので掃除機でチリ、ホコリを吸い取ってから撮影しました。
表面を手で押さえるとチクリと棘が刺さる時があります。小さいトゲやホコリを吸い寄せる性質を変えるのはカンナ掛け以外ないのは明らかです。しかし大工でないので桐のまな板以外削った経験がありません。正月に今年の運勢読みとしてチャレンジしました。うまく削れると一年安泰、失敗すれば波乱予想の一年としました。
杉材のようですが何とか4面削れました。やはり桐より想像以上に削りにくかった。腹筋が酷使されお腹が痛くなりました。これが杉でなくもう少し堅いヒノキなら自分の腕ではカンナ掛けは無理でしょう。上の写真では丸い穴が開いていますが大工さんがこの台の上に板などを置いて穴あけの台に使ったようです。
杉台にもう一工夫を加えます。薄い板きれをネジで付けました。
杉と違って桐のまな板はスカスカ腹筋もあまり使わずに楽に削れました。丸くなった敷居の段差と違って桐のまな板が安定します。杉台の手前の端を正座して膝小僧で押さえてカンナ掛けをします。下のカンナの左に写っているのは削りくずと柿やミカンの皮を細かく刻んだものです。リサイクルして南側が道路の家庭菜園に入れる堆肥の原料にします。リサイクルで生ごみを出さない 日々土作りから料理はスタート
かつて仙人お爺さんが上ってきた西口の斜面には10本近い富有柿の木があった。普通の木が共存できない笹の中に生えていたのです。笹は斜面の崩落を防ぐ目的で先祖が植えたものらしい。富有柿は樹勢が強くあんな笹の中でも実をつけると思っていた。小学校の高学年ごろから果物の皮をむくことを覚えてよりおいしく食べられるようになり、11月になり富有柿が赤くなると毎日食べていたようです。小学生が包丁で柿の皮を剥くとは少し早すぎるかも知れませんがそれほど子供のころから食い意地が張っており懸命に練習したのでしょう。働き始めて数年後父親が亡くなると年々西口の富有柿の実が小さくなり甘みが弱くなった。そしてついには実をつけなくなった。親不孝の極みとしてようやく父親が富有柿周辺の笹を刈り取ったり肥料をやったりしていたのをはじめて知ったのです。生きているうちにどうしてお礼を言わなかったのかと富有柿を見るたび悔やまれます。インフルエンザの項でも書いたように子供のころは風邪には本当に強かった。インフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)
小学校に入学前後のころでしょうか、実家は沼田10枚ほどの棚田を所有しています。棚田の上は雑木林と少しの赤松の森があります。現在はすべての赤松が枯れてマツタケはでません。当時は山越えでいかないと棚田にいけませんでしたが政府が農道をつけると工事の助成金が7割下りるという話が持ち上がったのです。米の収穫時水を抜けない沼田はあまりにも手がかかり両親は休耕田としていくばくかの助成金をもらっていました。その頃新しい商売を始めて沼田の棚田に米を植えるような余裕がありませんでした。しかし子や孫の代のために4軒で助成金を受けて軽トラックが通れるような農道をつけることに同意したのです。農道の受益者は4軒です。工事費の7割が政府負担で残り3割を農道の受益者4軒で負担しなければなりませんでした。残り3割といってもかなりの金額だったと聞いています。全員一律の25%というわけでなく3割の負担を巡って4家で何カ月も集会が開かれたのです。集会には寡黙な父に代わって母がでました。