2009年11月15日日曜日

マイタケとの格闘

 マイタケの人工栽培に成功したのはそう古いことではありません。秋の山で見つけた人がうれしくて舞い上がったから舞いたけというキャッチフレーズで売り出したらしい。何がそんなにうれしいのかというと強い旨みがあるとのことでした。店頭に並んだ初期の頃その強い旨みとやらをぜひ賞味したいとさっそく味噌汁、吸い物、鍋料理に使いました。1年近く機会があればマイタケを料理に使ってみました。でも結果は強い旨みは出せませんでした。味噌汁に入れれば黒い汁が出て見た目が悪くなり旨みが感じられないのです。ついに料理方法が分からないまま舞い上がるほどの値打ち、強い旨みなどは人工栽培を成功させたキノコ業者の方便で人気を煽るために誇大な表現に走ったのだろうと結論付けたのです。そしてマイタケへの興味を失ったのです。

ある時カウンターに座り目の前で一品づつテンプラを揚げてくれる天ぷらコースを食べました。天ぷらセットで出されるのでなく揚げたての熱いうちに食べる高級コースです。確か生シイタケの天ぷらの次に出されたと思いますが、マイタケですと和紙の上に置かれた天ぷらを見るとそれまでの失敗のシーンが頭に浮かび美味しいからでなくもったいないから食べようとしか考えなかった。まったく期待しないで口に入れたのにシイタケ以上の旨みがあったのです。その時しみじみと脳裏をよぎったのはそれまでは水を使った料理だった。マイタケはあまりお米がとれない山村の山の幸です。中国のような農産物豊かな大平原でもない日本の山村で昔から照明にも使える高価な油を使った料理が普及していたとは考えられません。安価ななたね油が開発されたのが戦国時代の終わりだそうです。庶民に油料理が普及したのは明治以降かも知れません。昔からあったマイタケ料理は当然味噌汁、吸い物などの水を使った料理のはずです。あくまで山奥い山郷をイメージしてみそ汁などに使って試食したのでした。水を使う料理では60度前後の低い温度でマイタケは旨味を出すそうです。とにかくテンプラがおいしかったので家に帰って真似をしたところ旨みが強く感じられました。
 もう一つの販売促進のキャッチフレーズは免疫力アップです。マイタケ成分のなんとかがガンの免疫療法に聞いたかという紹介記事があった記憶がありました。現在の科学ではキノコ、植物に含まれるたんぱく質のすべてを分析するのは不可能なのです。ですから発見できた成分の一つを捉えて免疫力を強めると主張しても他の未知の含有成分で打ち消されるかも助長されるかもわからないのです。たった一つの有効成分に注目するのは意味がないことかも知れません。マイタケは油を使うという新しい発想がこの野菜炒めの作成に役立ちました。
 ルーシー原人以来、人類は地上では大戦争の繰り返しでした。動乱→帝国の崩壊→大戦争→新帝国の成立の繰り返しが歴史でした。しかしどんな大戦争による政府、朝廷ができても私のような庶民にはあまり関係のない戦いでした。しかし庶民の体の中では駆逐するか生き残るかの激しい戦いの歴史があったのです。水虫などのように人体と共存できる病原菌以外は、侵入した病原菌、自分の細胞から発生した新生物と免疫との大戦争です。もし私の先祖が子孫を残す前にミクロの決戦に負けていれば自分が存在しないのです。今世間を騒がせている新型インフルエンザにも先祖は何度も遭遇して駆逐したからこそ自分があるのです。既存のインフルエンザも過去には新型インフルエンザであったはずです。欧州で大流行したペストも人類が初めて遭遇した未知の病原菌でした。日本の京都にも流行病(ハヤリヤマイ)という病名で大勢の病死があったといつの時代にも記録されています。テレビなどによると人類が遭遇して抗体をもった歴史が自分のDNAに記録されているとのことです。私も人様より、よりよい暮らしをするという地上での競争からは落ちこぼれましたが、免疫戦争では勝利して今のいのちをつないでいるのは確かです。もともと生まれながらにしてどんな病原に遭遇しても生き残れる素質を持っているのです。そしてほんの少しの栄養などの助けがあればもっと強力な免疫を持つことができるはずです。そのほんの少しの自分で工夫した天然のサプリメントがインフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)であって欲しいのです。

2009年11月1日日曜日

インフルエンザ感染を予防した野菜炒め(免疫力アップのマル秘レシピ)

冬なのに暑いと感じて診察室に行くと「その白線に沿って歩いてください」数歩白線の上を歩いたつもりが「インフルエンザです。すぐにタクシーで帰宅して下さい。電車は危険です。帰宅は健康管理医としての業務命令です。同僚を感染させてはいけません。」そんなわけで対症療法の薬で自宅でインフルエンザの治療に専念することになりました。20代後半の頃です。治療に専念するといっても薬を飲んで寝るだけです。処方していただいた薬を飲むと眠くなりました。床に就くと背骨が痙攣するようにガクガクとなり天井を見ているとまだ日の高いお昼なのに夕方のように視界が暗くなりました。奥歯が鳴るように震えこのまま眠ると二度と目覚めないかもしれないと怖くなった。それから三日三晩食事とトイレ以外は眠り続けました。それまで、今までもそうでしたがどんなに疲れていても睡眠は12時間が限度です。それ以上は寝れないのですがこのときばかりは三日72時間以上連続して眠れました。本当に体の具合が悪い時はいつまでも寝れるものです。そして更に具合が悪いときは永遠の眠りにつくのでしょう。水が飲みたいと目を覚ました時は敷布団とその下マットレスまで汗で濡れていました。そして水が飲みたくて仕方がなかったのです。起きてから半日ほどとても爽快な気分です。体が免疫がウイルスに勝ったのだ。悪い毒素は大量の汗とともに追い出したから気持ちがいいのだと納得しました。大酒の後アルコールが抜けたような爽快感の中で、高校を卒業して10年にもならないのに体力が落ちたのをしみじみ感じた。通学の帰路、見覚えのある場所で立ち止まると朝登校時に咳をして鼻をかんだのを思い出したのでした。朝咳や熱があっても昼には治っていました。風邪は学校で治していました。それが視界が暗くなるようなインフルエンザにかかるほど体力が落ちていたのです。その後これほどひどくはありませんでしたが、二三年に一度のペースでインフルエンザをもらっていました。どうしたものかといろいろ考えました。アフリカ東部で発見された原人ルーシー、アダムとイブなどの祖先から代を重ねていま自分が生きているということは医師の処方箋より優れた副作用のない最高の薬を体内にあることに気が付きました。祖先の一人でも病気でなくなっていれば自分が存在しないからです。細胞は普通役割仕事があり肝臓の細胞なら生きていくために毒素などの分解をして生命維持に貢献する仕事をしています。日頃はリンパ節などに隠れて仕事もしない遊び人の生き物ですが、外敵を見つけると脳に体温を上げる命令を出し筋肉などからATPを奪い取り(背骨が痙攣したのは背筋からATPを奪い取ったのでしょう)爆発的に増殖する免疫のことです。高校生の時代はこれが強くてインフルエンザが増える前に感染した細胞を破壊したが体質が変わり撃退するまで時間がかかるから仕事を休まなければならなくなったのと思い至りました。
 そこで免疫力アップの食事を試行錯誤の結果完成させたのが以下のレシピです。
材料 5品  オリーブオイル 味を良くするため岩塩 ピーマン 玉ねぎ マイタケ
これだけです。これらは年中いつでもスーパーで売っています。玉ねぎは地下の食べ物で中国風に陰陽で分ければ陰です。マイタケも日陰のキノコで陰陽で分ければ陰です。実症陽症の自分の体質を中庸にしてくれると考えました。味に関してはピーマンは苦味 玉ねぎは甘み マイタケは強い旨みと三つそろっており量の調整で自分好みに変えられる。そして大切なのはおいしいと感じるものを食べることです。まずいと思うと継続できません。青ピーマンが苦手な方は黄色や赤に変えるといいかも知れません。
ピーマン 玉ねぎ マイタケを千切りにします。要点は太さを均一にすることです。熱が均一に伝わります。ピーマンだけはアクがあるので穀物酢を入れた沸騰水で湯通しします。
穀物酢を入れた沸騰水で湯通したピーマンをパンチざるで受けてピーマンが暖かいうちにすぐにオリーブオイルを引いたフライパン(フライパンは油蒸気が上がるまで熱します)にぶちまけます。ジューと音が鳴りピーマンの水分を飛ばします。フライパンの温度がピーマン周囲の水で100度前後に下がるはずです。そこで千切りした玉ねぎを30分以上空気にさらしたのとマイタケを入れます。千切りした玉ねぎを30分以上空気にさらすと血液サラサラ効果があるそうです。 このマイタケと玉ねぎの千切りを加えることで100度前後からマイタケの旨みを出す温度60度前後に下がります。フライパンと違って本格的な中華鍋です。1mm程度の薄い鉄板を半球状に加工しています。底に溜められる余熱はほとんどありません、
岩塩で味付けして完成です。夏期も2週間に一度のペースでこれを食べるようになってからインフルエンザにかかったことはありません。ただし他の方に効果があるか、新型インフルエンザに効果があるかは保証の限りではありません。自分はこれで予防できると信じていますが。

2009年10月24日土曜日

内宮のお神酒をどうぞ

 外宮、内宮でご先祖のご冥福を切願してきました。内宮の帰り道でお神酒を買いました。背景が暗くローソクの火が強調されやけに明るいのは真夜中の墓前だからです。
ご先祖にお酒の好きな方がおられたらと供えました。普通のお酒ではなく休憩所で売っていた伊勢神宮のありがたいお酒なのです。明治の神社統合まで代々神武天皇ゆかりのお方を祀った社の氏子であった先祖がきっと喜んで下さると信じてお供えしました。お酒の香りがわかるよう備前焼の口の大きい器に入れました。他のお墓に休んでおられる私のご先祖もお神酒を目当てに遊びに来てくれればよいのです。 備前焼の中のお神酒は透明ですが白い器に入れると黄色です。翌日の夕方にはアルコールが飛んでいて少し酸っぱかった。防腐剤はないようです。撮影の後、口に含んでバケツに吐き出しました。もったいなかったですが、飲み込むと飲酒運転になります。

2009年10月11日日曜日

祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)

実家の西口を上ってきたその老人の外見は、三角に伸ばした長い口髭、額は大きく光っていた。髪の毛がないというわけでもなく白い長髪が両肩に架かっていた。服は老人用のグレー系の和服だった。そうしてアメ色に光る立派な曲った長い杖を両手で持って喋っていた。忘れられないのはそうした容貌より祖母に言っていた内容でした。「〇〇の仏さんは怖いんだ。みんなが怖がっている。〇〇の家から出た者を苛めると〇〇の先祖が何倍も仕返しをする。このあたりの年寄りで知らない人はいない」終始含み笑いを絶やさないで喋っていたようでした。〇〇とは我が家の屋号で同じ在所集落に同じ名字の家が複数あり区別するために使っていたと思われる。近所の人は屋号で呼び合っていました。そのお年寄りが帰ったあと「おばあさんわからない。あの人はホトケって何を言っていたの。何が恐ろしいって」祖母は仏壇の鉦を鳴らしながら「いいんだ。お前はそんなことを考えるな。この家の者に悪さをするとうちのご先祖が代わりに仕返しをするとよそ様が噂しているって私をからかっただけ。お前はうちの子だしそんなことを考える前にこの仏様に手を合わせればいいんだよ」祖母が亡くなったのは小学校に入る前でもしかすると自分が言葉を覚え始めた頃の記憶かもしれないし、どちらにせよ幼いころの記憶としてはかなり古い記憶の部類に入るでしょう。仙人という言葉を知ったのは国語の教科書で小説杜子春を読んだのが最初と思われる。仙人という漢字を知りこの古い記憶が仙人お爺さんと記憶の中でまとまったのでしょう。両親は法事などもお寺がうるさいから嫌々していたような低落で先祖供養には熱心でなかった。亡父は先祖のことなどほとんど話題にしない人でした。今となっては仙人お爺さんが誰なのか知る由もないのです。ところが先祖供養を実践するうちにこの記憶が再び大きくなっていたのです。新宿西口の占い師のお言葉「あなたは大勢のご先祖に強く護られている。心配はいらない」の記憶も膨れ上がってきました。長い間先祖の御霊などは迷信に違いなく、そうした迷信の助けを借りようとするのは無能の人のすることと信念を持っていました。人様のことはいざ知らず、自分のご先祖の御霊は実在すると少しずつ思えるようになってきたこの頃です。仏壇やお墓を買った時、何の感動もないのに胸が熱くなったを書きました。胸を熱くしたのは決して自分の側には原因がなく、感動した事を代替強調表現でもなく、なにかの外的な要因以外に説明の方法がありません。

2009年9月27日日曜日

リサイクルの受益者は自分であった方が長続きする(ペットボトル


ペットボトルの回収ボックスをスーパーで見つけた時は本当にラッキーでした。今もそうですが、その頃は市役所のペットボトル回収日は月2回でした。6畳一間の昭和30年築のアパートに住んでいた住環境では2リットル名水のペットボトルはあまりにも大きすぎた。中に水が入っている分にはまだ我慢が出来たが空のペットボトルを足に引っ掛けカランコロンの音を聞くと情けなくなった。回収ボックス設置によりその大きなゴミが月2回の回収日を待たずに6畳一間から消えるのです。空いたスペースは名水入りの予備のペットボトルに置き換えられたのです。スーパーも小さいマンション、賃貸文化住宅住人の2リットル名水のペットボトルの事情を知ってなんとか来店数を増やすために回収ボックスを設置したと思われます。ラベルはがし、押しつぶして体積を減らせる、ペットボトルを網袋などに移して回収ボックスのスペースを作るなどかなりの維持管理費がかかったと思います。それでも来店数増加のためと耐えたのでしょう。これに刺激を受けたのか近くの2軒のスーパーも競うように回収ボックスを設置しました。

家を購入してからスーパー設置の回収ボックスのありがたみがかなり薄れました。空のペットボトルは空き部屋に一時保存すればこと足りるからです。最近こんなことを考えています。資源リサイクル運動の推進で税制の後押し、石油高騰で純度が高い空の透明ペットボトルは買い上げ価格が上がったのではないか。最初の感謝を忘れて商品を買って儲けさせ空のペットボトルも献上してさらに儲けさせているのではないかとなんとく不公平感を持ち始めている現在です。回収ボックスも最初は入口においていました。回収ボックスの背面は大きなガラスでそこからはレジが見えました。回収ボックスは店員からも見える場所にあったのですが、最近は店員から見えない駐車場の近くに移動させさらに利用しやすくなっています。蓋をつけたままのペットボトル、つぶさないラベル付きのペットボトルで回収ボックスはすぐに満杯になります。それでも来店客の車を誘導するガードマンが知らせるのか3つの回収ボックスが満杯になる前に回収ボックスを空にしてくれています。ますますペットボトル回収ボックスは儲かるのかなとの思いが強まってきました。そこでペットボトルリサイクル再利用の受益者はまずは自分がと、ペットボトルの透明性を利用して生け花の水管理を実践しています。毎日交換するより2リットルの水資源の節約になります。回収ボックスに入れる前にペットボトルをリサイクル再利用する(生け花は蕾を買います)

2009年9月21日月曜日

回収ボックスに入れる前にペットボトルをリサイクル再利用する(生け花は蕾を買います)

 仏壇を買うまで花はお金を出して買ったことがありません。仏壇を設置してからご先祖には祖母など女性がいると気が付きなるべく生け花は絶やさないようにしています。小さい仏壇なので大抵中に入れずに前や横に飾るようにしています。当初は仏壇の金属製の花入れに活けていましたが、重さが軽く背の高い大菊、カサブランカなどはとても不安定でよく倒れて水をこぼしたものです。習慣になっている起きたての煎茶のためいつも2リットルミネラルウォータの透明なペットボトルが転がっています。2リットルの水は重さが2Kgで口が小さいためひっくり返してもこぼれる水が少量のうちに元に戻せると都合のいいことが重なります。重くて倒れにくい倒しても被害が小さいと使いやすいのです。水が十分にあり花が吸い上げても水が涸れる前に花が枯れます。花を買ってきた当初は新しい水に切り花を活けるのですが、もともと横着でズボラな性格であまり水を変えないのです。花があれば心がうきうきするほど好きなほうでないのですからなおさらです。透明なペットボトルを使い続けているうちにあることに気がついたのです。
 花が変色したり枯れるときは例外なく活けている水が濁るということです。左が汲み立てのみずで右が大菊を何日か活けた水です。言いかえれば水を濁らせずに変え続けていると本来花が持っている天寿を全うできる筈です。購入してから枯れる期間が長くなればそれだけ花代を節約できるということです。半年一年と積もれば相当な花購入代金の差となるでしょう。

 濁った水に活けていた大菊です。葉っぱが何本か黄色くなっています。放置すればもうすぐ花がしおれます。切り口の先端部分が水に繁殖した微生物でヌルヌルしていますので白線部から手で折ります。花屋の女主人によるとハサミで切るより手で折った方が花が長持ちするそうです。花を痛めた微生物はペットボトルの内面にもついているはずです。ブラシを突っ込んでヌルヌルを取り除くというよりペットボトルを交換します。飲み水を入れていたものですから完全に滅菌されています。使ったペットボトルはリサイクル回収ボックスに戻します。ミネラルウォータを入れていた透明なペットボトルを回収ボックスに返す前にもう2~3回使ってから回収ボックス戻すというペットボトルのリサイクル再生利用です。
 生け花は菊にしろカサブランカでもつぼみで買います。それの方が持ち帰り時に花を痛めません。開花から枯れるまで長く楽しんでもらえます。水を濁らせなければ真冬なら大菊で一か月はもちます。毎日水を換えることが出来たらいいのですが、それでも花瓶の内側に付いた微生物まで毎日ブラシで落とす人はいないでしょう。カサブランカは開化の瞬間に最高に香りを放出します。帰宅すると匂いで開花したのがわかります。
 自分でつぼみから咲かした花は愛着もわきます。再利用したペットボトルは汚れが目立たないうちに早目にスーパーの回収ボックスに返します。スーパーも大変です。近くに3軒もあるのです。ペットボトルが汚れているからと回収を断れば他店に逃げられかねないのです。便利の良い駅の近くに住むのはありがたいことです。

2009年9月20日日曜日

まっ、まっ、まつたけを買いました 日本産との触れ込みです

 松林の下を歩いているとグリッと弾力のある反発を足に感じた。わずかに松の落ち葉を持ち上げただけのまだつぼみの松茸を踏み抜いた感覚です。今なら相当叱られる失敗ですが、その当時は一度に大きなかごに何杯もマツタケが取れたのです。足で踏んだりナメクジに食べられたのは夕食に回されました。父母の時代より高価だったらしいが、今のように高価なものではありませんでした。小学校入学の前だった頃のことでした。その後忌わしいマツクイ虫の大発生で、立ち枯れて赤くなった赤松を子ども心に傷ついて眺めてきました。中学生になる頃は実家が所有している小さな松林の赤松はすべて枯れました。陸のダイヤと言われるようになったのはそのころからだった。
 今年店を覗くと3本で7500円とリーズナブルな値段だったので思い切って買いました。昨年はマツタケが不作で2本で20000円であきらめました。有名な京都丹波産ではありません。その近くの〇〇産が次に値が高くそして一番安いのが〇●産です。 とりあえず土瓶蒸しにします。土瓶蒸しは経験ありません。カツオの厚削りと奮発した羅臼昆布です。少し千切って口に入れましたが後味まで甘い。贅沢な昆布は贅沢なキノコに合いそうです。


ラウスコンブは吸いものと同じく沸騰直前に上げました。野菜は三つ葉か水菜か悩みましたが三つ葉に決めました。

昆布とカツオ、みそ汁用のスープ少々の元のだし汁です。脱化学調味料主義で化学調味料、だしの素、昆布茶など市販の調味料は入れていません。昆布の塩分が上品な塩味を演出しています。三つ葉とマツタケ一本を土瓶に入れました。深底の鍋に入れて20分ほど蒸しました。蒸しあがりです。ダシの色はマツタケからのエキスもあるのか写真よりも濃くなっていました。元のダシはカツオが本物だったのか結構な酸味があり好みでした。この松茸を入れたダシはもっと酸味がきいていてさらにおいしかった。ただマツタケの香りが全くしません。この松茸が日本産なのか外国産なのか見た目では区別がつきません。次回は別の県のブランドにしようと思う。食感も郷里のマツタケはもっと弾力があった気がする。たまたま今回に限りこの松茸だけがが悪かったかもしれない。原因は産地より商人か料理方法にありそうな気がする。

2009年9月7日月曜日

タラの木は里芋と日照権を争っています

2009年5月2日に見つけたタラの芽です。あきらめていたのに芽が出ました 一週間後、何者かにこの新芽希望の芽がすべて食べられました。今年の運勢も尽きたかとかなり暗い気持ちになりました。タラの木は高麗人参と同じくウコギの仲間なのです。新芽を食べた何かの虫もさぞかし精がついて子孫を残したかも知れません。そうした悪い虫がこの南側が道路の家庭菜園で増えるのはこちらとしては困るんですが。また来年数百円出して棘なしタラの木の根を買おう今度は成長するまで室内で育てようとも考えました。
 次の雨のあと最後の力を振り絞ったのか再び芽を出したのです。最初の発芽より一回り大きかった気がします。希望の芽を守るために工夫をしました。かねてよりたき火の跡を見つけるたびに集めていた木灰を、新芽の周囲にお城の堀のように囲んだのです。雨で木灰が流されるたびに木灰の防衛線を再構築しました。木灰の防衛線は効果がありそれから新芽が食べられることはありませんでした。希望の芽は再び成長を開始したのです。その後みずみずしい緑色の新芽は芽を出すたびに前回の葉っぱより大きな葉っぱに成長しました。梅雨から夏の間その繰り返しでした。水やりは欠かしませんでした。
 上は道路から撮った写真です。発芽から4ヶ月たった現在タラの木は里芋と日照権を争うまでに成長しました。大自然の原理として、生物は自己のDNAをより多く残すように行動するらしい。植物にとって光はどれだけ光合成をして大きくなれるかの重要な条件です。日照権獲得で負ければ大きくなれない結果として少しの種しか残せなくなるという実りの秋に向けた必死の競争です。お互いにフィトンチッドを出し合って妨害しているかもしれません。下は金網の中家庭菜園から撮りました。タラの葉も里芋の葉もいっせいに右側つまり南側の道路を向いています。この調子では現在数十センチの丈ですが来年には2mほどになるかもしれません。そして再来年にはタラの芽のテンプラが期待できます。
 下の写真はタラの芽の大きさを暗示させるようなタラの幹です。直径1cmはあります。脇芽も確認できます。棘なしタラの木との触れ込みでしたが、写真では棘はありません。目で見ても確認できませんが、幹を握ると時々チクリとします。野性のタラの木は葉っぱも握ると棘があります。この程度は許そうと思う。何せ再来年の春の希望の幹です。

2009年8月30日日曜日

帰りに振り返ると夜の霊園の灯台のようです(寝る前のお墓参り)

蒲団にくるまって明日しなければならない仕事などをつい考えてしまうと、今までの行きがかりなどから明日の仕事はよくないことが起こりそうだ。うまくいきそうにない。予想されるトラブルなどが気になって寝つきが悪い夜がたまにあります。今夜もそんな夜でした。本を読んで眠りを誘うにも2時間はかかります。それならいっそお墓参りでもしてすっきりとした気分で、やるだけのことはしたんだという開き直りの気持ちが欲しくなりました。就寝前の墓参なら往復で20分、霊園では灯明と線香だけにして10分から15分、合計30分ちょっとでで安心が得られる。前に読んだ本で2時間使うより1時間以上睡眠に使える。祈りの言葉は「ご先祖様のご冥福をお祈りします。線香と灯明を差し上げます。明日も休まず仕事に行きます」これなら頼み事にはなりません。苦境をわかっていただくために心の祈りではなく大きな声で言上しよう。どうせ誰もいない真夜中のお墓参りです。周囲に聞かれる心配など馬鹿げている。ここまで考えて車のキーを持ってガレージに行きました。これですっきり寝れそうと帰りがけお墓を振り返ったのがこの写真です。広い霊園の灯台のようです。1号ローソク4本は1時間灯明をともします。10分少しで床についても50分近く火が消えないということです。 目で見た風景はこんな感じです。ストロボで明るくなっている手前を背景の黒で塗りつぶしました。近場で寿陵建立の見返りは確かにありました。精神的にお金では買えないものやるだけのことはした、これでお客に叱られても仕方がないという安心感が得られます。開眼法要後は今のところ仕事はうまくいっています。

2009年8月29日土曜日

個人でできる大きなリサイクルは新車を乗りつぶすことです(無事是れ名車なり_車のリサイクル)

 愛車の車検証の一部です。見ていただきたいのは初年度登録が平成1年8月つまり車を購入した時期が平成1年8月で平成21年8月の現在も乗り続けているという事実です。20年目を迎えた自家用車です。
 40万キロ、50万キロだそうです。以前テレビで見たのですが、この数字は日本で廃車になった大衆車を東南アジアでタクシーなどにリサイクルした場合、日本で廃車になった中古車が本当の寿命を迎える走行距離だそうです。たいてい10万キロに達するまでに日本のユーザは廃車にします。私の車も20年乗っていますがまだ走行距離が10万キロにも達していません。40万キロでポンコツから考えると10万キロ未満で廃車にするなんてとんでもない話です。
 自動車への考え方はいろいろありましょうが、自分は目的地まで安全に行けることがすべてです。高機能やカッコよさを気にしません。もうひとつは維持メンテにお金がかからないことです。故障しない車が理想です。この前の車、中古車を買い10万キロ以上まで乗った経験によると、部品たとえばダイナモなどが壊れると他の電気部品も寿命を迎えて次々と故障します。度重なる故障に泣いた経験からこの車は日本で一番販売実績のある大衆車種にしました。販売実績はユーザーからのフィードバックに比例しするし、結果故障が改良されて壊れにくい部品の製造でより売れる車へと長年にわたり進化したはずです。よく売れた販売実績と故障頻度は反比例するのではないか。この期待に車は見事にこたえてくれタイヤ、ワイパーなどのどうしようもない消耗品を除くと故障は昨年換えたクラッチだけです。クラッチも大きな高価な消耗品の一種ですが。20年間でメンテナンス費用はこの6万円だけです。
 平均7年ほどで買いかえるとすると購入金額が200万ちょっとだったので、自分の車をリサイクルして400万円ほど節約したことになります。大衆車が200万ちょっとは高いでしょうが、フルタイム4WDなのです。フルタイム4WDは高速道路で少しぐらいの積雪や大雨でもしっかりと路面をとらえます。急カーブでも路面をとらえる力が大きいのかタイヤがキューと泣かないのです。欠点もあります。7000キロ程度の走行距離でタイヤ交換しなければならないのです。車のマニュアルに書いてあったタイヤをローリングをしても同じです。車の修理屋さんはまだ乗れるのといいますが走行距離が数千キロになるとタイヤのブレがハンドルに伝わり気になります。タイヤを早目に交換するのは安全運転に貢献するんだと思い泣く泣く修理屋さんに持ち込みました。タイヤはゴムが一番減りにくい硬いつまり一番値段が安いドイツ製のノーマルタイヤにしています。ここ3年ほどは雨ざらしから家のシャッター付きのガレージに入れていますのでタイヤ寿命が1000キロ程伸びたかも知れません。ワイパーの交換時期は雨ざらしをやめてから確実に長くなっています。ゴム類は直射日光と雨に弱いようです。4WDの欠点もありますが次回の車もフルタイム4WDの予定です。  写真は15年以上雨ざらしにした愛車のダッシュボードです。さすがにあまり人に見られたくはありません。高速料金の支払いの時強い視線を感じましたがETCのおかげでそれは解決しました。

 今年3月はお金が入り新車購入のチャンスだったのですが、寿陵建立でまだ当分この車にお世話にならなくなりました。ところでお墓参りにとって車は重要なアイテムです。霊園までバスの送迎がありますが、1日数回の本数です。明日の仕事はよくないことが起こりそうだ。こんな夜はトラブル回避のために寝る前にお墓参りをして明日に備えたいと思っても車がなければどうしようもありません。バスの運行は当然日中です。車なら片道10分で真夜中の墓参も可能です。真夜中の墓参で安心して寝れます。

2009年8月15日土曜日

胸が熱くなったのはご先祖のお告げ、ご先祖の啓示でしょうか(ご先祖はいつも私を見ている)

 この家の購入契約が2005年秋でした。一度よく見ないで購入を見送ろうとしたことがありました。その時、何者かに導かれるように家の中に入りました。どのように導かれたのか後で書くつもりです。そして購入を決めたのです。その何者かが家の場所、一等地にこだわった亡き父親だったのかもっと古いご先祖だったのかを考えているのですがわかりません。新宿西口の手相占い師から聞いた「あなたは多くのご先祖に強く護られている」という言葉などが気になっていました。
ある時街を歩いていると仏壇店を見つけました。風で消えないローソクを探そうと思って入りました。仏壇店に入って、展示している仏壇が安い物で5万円で買えるとわかったのです。当然外国製です。自分には分相応の仏壇と思い購入を決めました。購入後持ち帰る必要はなく土曜日に配達してくれるのもありがたかった。
 2007年8月21日にお金を持って仏壇屋に行きました。そこで少し大きめの仏壇が気になり値段は7万円でした。なんとなくこれの方が2万円以上に優れていると感じたのです。お墓はワンランク上げると50万円差でしたが、2万円ではほとんど悩まなかった。位牌やローソク立て一切のセット7万円を仏壇店の店主に差し出した時です。胸が何の前触れもなく息ができない程、カァーと熱くなったのです。5秒間だと思います。胸が熱いというよりもっと正確に言いますと左右の肺の上部が熱くなったのです。 胸が熱いとは丁度高温のサウナなどで熱い水蒸気を吸いこんだ感覚です。外国のホテルでサウナの室温を上げるために、ヒーターの上に置いている匂い消しの石に水をかけて発生する水蒸気で室内の温度を上げるサウナがありました。日本ならそんなことをすればヒーターが痛んだりフィンランドの石割れたりするのであり得ませんが。その水蒸気を吸いこんだ感じなのです。熱くなったのは左右の肺の上部です。社会人になって墓参りをしない実家の法要に参列しない私が仏壇を買ったのがご先祖を驚かしたのか確かに見たぞというご先祖のお言葉、ご先祖のメッセージかも知れません。仏壇が届いた土曜日さっそく梱包を開けて2階の南東の部屋の腰ぐらいの高さの台に置いたところ仏壇の幅と台の幅がぴったり一致しました。5万円の仏壇は10cm以上幅が狭いので台の幅が余ります。最初5万円に目をつけて7万円の仏壇が気になって目移りしたのもご先祖が教えてくれたともいえます。位牌には戒名も入れてなくお坊さんに頼んでお性根入れもしていません。子孫である私の朝夕の供養で必要ないと考えました。ただこの家で一番最初に朝日を浴びるのはこの南東に位置する仏壇です。
 その後実家のお墓参りは月一度程度の頻度で行いました。実家のお墓参りの御利益は確かに仕事をしているとき運が良い、ツイていると感じたことが頻繁に起こりました。実家のお墓参りの御利益の期間は2週間程度でしょうか。お墓の代金は墓地の永代使用料と墓石台とほぼ半分づつを2回に分けて支払いました。1回目は仏壇のこともあり左右の肺が熱くなるのを身構えて待ちましたが何も起こりませんでした。それであの仏壇の時、肺が熱くなったのは体調のせいでご先祖のお告げとはあまり関係がなかったのかと思い直したのです。2回目に残りの現金を支払った時、左の肺の上部が熱くなったのです。右側は何もなかったのですが、やはりご先祖様からの啓示メッセージのようです。だとするとありがたいことにご先祖はいつも私を見ているということです。先祖供養に使った金額とは無関係のようです。
 青信号に変わったり踏切の前で遮断機が上がるようなことは6月に入ってから徐々におさまりました。現在は青信号の確率は寿陵建立を思いついた3月以前に戻っています。いつまでもそんなことが続く訳がありません。きっといいことがあるから、新車などにお金を使わないで寿陵を建立しろというご先祖のお告げだったのでしょう。赤信号は待つことで必ず青になります。さほど重要でないことでご尽力いただかなくとも2、3分で解決できるのです。でも急いでいるときは青信号が多いです。
 この写真は苔が燃えたご先祖のお言葉により実家の墓から持ち帰った墓地の苔です。捨てるわけにもいかないので家庭菜園に入れました。次回の実家の墓参ではへらを使って徹底的に苔を除去するつもりです。苔を燃やすことでご先祖のお告げを伝えてくれたのです。そう思っています。

2009年8月9日日曜日

手を汚さないでウナギを焼く

 土用も過ぎれば、売れ残りのウナギの安売りがちらほら目にします。愛知産のウナギはなかなか半値にはならないのですが、土用直後はチャンスです。安売りの愛知産のうなぎをとりあえず買って、冷凍庫に保存します。そして食べるときはもう一度焼きます。オーブンから出すと焼きたての香ばしい風味が甦ります。うなぎも当然糸を縫い付けるように金串を打てば、バラけてくっつかないできれいに焼けます。
 さてかば焼きのたれですが、原料はうなぎの骨のダシ、みりん、醤油のようです。うなぎの油も加わって手につけばかなり厄介で、不快な目にあいます。これも手を汚さないで魚の味噌漬けを焼く のようにプラスチックのケースを利用します。
 冷凍庫から取り出し常温に戻して、うなぎのかば焼きをケースごと半分に切ります。天然砥石で研いだよく切れる出刃庖丁のお手柄です。
 ラップを押えながら金串を縫い付けるように打ちます。お墓の息抜きの穴の深さを測った金串です。
 平行でなく交わるように二本の金串を打ちます。その方がひっくり返すとき力の加減ができていいみたいです。
 焼きあがりです。少し焼き過ぎですが香ばしさととろけるような食感は同じです。電子レンジで焼くとアルコールや水分子しか熱くなりません。したがって100度以上にならなくて油が焼ける香ばしい匂いはしないでしょう。電子レンジの高周波は油を温めないのです。ガスコンロにおまけのようについているガスオーブンでもウナギの香りが立ち込めます。うなぎは土用を少し外しても土用うなぎです。土用が過ぎてもスタミナを消費する猛暑は相変わらず続くのです。

2009年7月25日土曜日

深夜のお灯明は周りのお墓も引き立て役にします。

 墓石が立ち開眼法要前夜のお墓です。法要式典のためかさらしをまいています。さらしはお坊さんの読経の前に霊園の方に手伝ってもらって下から巻き取りました。墓標の文字には自分の名前を入れておりません。あくまで先祖供養のための竿石だからです。名前は建立者として遠慮がちに左側面に小さく彫ってもらいました。
 さて23時の誰もいない墓地です。両側サービスしてもらった石製の灯篭と上二つのガラス製のローソク立てに火を入れました。ガラス製のローソク立ては石製の灯篭が出来たら持ち帰り実家のお墓に移すつもりでした。明るさが断然優れているので残すように決めました。深夜四本のローソクの灯明は自分のお墓だけに明るくともっています。この広い霊園を夜の海に例えれば、ご先祖や船を導く灯台のようです。10代20代とさかのぼれば何百もあるこの霊園のお墓でご先祖様が共通するお墓も必ずあるはずです。どこのどなた様のご先祖様かは存じませんが。他のお墓で休んでおられた古い私のご先祖様もこの明るい灯明でこちらに来て下さるかも知れません。
 私の墓の強みはお骨がなく何のしがらみもない新築の家ということでしょうか。供養の回数も真心も自信があります。お墓が外界と赤土でつながっているのは安い小さいお墓ではここだけのはずです。周囲のお墓はコンクリートと分厚い花こう岩で密閉され熱がこもる息苦しいお墓です。真夏の直射日光も赤土の水分で内部の温度を下げるはずです。そんなわけで加護して下さるご先祖を募るためにも大きな霊園を選んだのは良かったかもしれない。すこし気味が悪いですが、他に墓参者がいない分深夜の墓参は功徳が大きそうです。見たことはないのですが火の玉や幽霊が人に危害を加えたという話は聞いたことがありません。おまけに片側2車線で交差点では片側3車線4車線になる高速道路のような霊園までの道路は車が少なく事故の心配がほとんどありません。深夜の燈明と墓参はいいとこずくめです。
 下が墓石を立つ前の最後の写真です。何枚も撮りましたが背景が暗くローソクの火が目で見たように強調されている写真はこれ一枚だけでした。ストロボが昼間と同じように背景も明るくしてしまいます。夜の灯明の撮影は難しいです。
 誰でも知っている由緒ある大きな寺院に行った時です。先祖をこのお寺で供養したいのでどのような方法がありますかと尋ねると生前の名前か戒名を僧侶が唱えて7日間灯明をあげるサービスがあるそうですが、線香をあげる供養の方法はないそうです。灯明サービスは一人2000円ほどでしたので申し込みました。こうしたことから線香より灯明の方が霊験あらたかということでしょう。

2009年7月23日木曜日

新聞社の善意と使命を装って「号外です。どうぞ」 ひっかかりました。

  少し大きな駅を出たところで「号外です。どうぞ」といって新聞のようなものを差し出されました。まれに無料で配る号外と聞いてどんな大きな事件が起こったのかと頭は大混乱で新聞らしき紙の文字を読めなかった。読んだ時は受け取った後でただの衆議院選挙のチラシとわかった時はもう遅かった。まんざらの嘘でもなく、最上部に白抜き大文字で「号外」と書いています。手渡された人に返すわけにもいかずゴミを家まで持ち帰りました。くやしくて握りつぶしてゴミ箱に入れる時、ブログのネタにはなると思い直しました。〇〇先生出馬表明などのキャッチフレーズではほとんどの人に無視されるのがオチです。号外ですと呼びかけられるとかなりのインパクトを受けます。多くの人が注視するはずです。背水の陣を発案実践した最初の将軍韓信は寡兵で大勝利しましたが、その後中国の将軍は敵が背水の陣を取ると警戒して損害が多いと決戦を仕掛けなくなったそうです。最初に発明した韓信だけが背水の陣で勝利の美酒を飲めたのです。うろたえて受け取ってしまった負け惜しみですが、選挙期間中号外は警戒して受け取るのは今日だけにしたい。

2009年7月13日月曜日

お墓を覆うコンクリートに息抜きの穴を開けてもらいました

 側面がコンクリートで埋められたのに苦情を言った基礎工事です。このままでは文字通りうわべだけの赤土になってしまいます。見えている赤土が地中深くお骨を納める中までつながっていないと意味がありません。  石屋さんから電話があり、ブロックを割って側面に穴をあけ穴の深さは地面に達していますとの電話をもらいました。気になってその穴はそのままにしているのですかと聞くと、土をかけていますとのこと。後で検分に行くといったのにどうしてそのままにしておいてくれないのかわからない。まだ見られたくない事情でもあるのでしょうか。土曜の朝カメラを持っていくと一ヶ所づつ穴をあけるという約束が二か所開けてくれていた。長さも数センチあり十分でした。
 深さをチェックするため金串を用意しました。 長さは30cm少しあります。

 土を入れた側面に差し込むと金串全部が埋まりました。割りばしも抵抗なく差し込めました。
 別の場所でもチェックしました。問題ありません。

 地面に出ている縁石より穴の深さが、赤枠で囲んだ分だけ数センチ下までの深さに達しているということです。

 基本的には、傾いたら施工業者が無料で修繕するシステム。強度ばかり気にして快適さを考えない。見えないところには手間をかけたくない。安い墓地で面積の小さいお墓。1グラムでも大きい墓石にしたいのか墓石が大きすぎ重い。思うにお墓は墓石より地面(墓地)が肝腎と考えます。こうした事情が息苦しいお墓を作っている原因のようです。お金があればもっとゆっくりできる大きな面積のお墓にできますのに。ご先祖様大金が転がり込むようにして下されば必ずもっと大きなお墓を立てます。これがいま自分にできる精いっぱいなのです。お許しください。

2009年7月12日日曜日

ご先祖のお言葉なのか気になって墓地に行ってみると約束は守られていなかった

 ウィークデーの日中に仕事をしていると墓地のことが何度も頭に浮かぶのです。土の中のゴミまで取り一番きれいな墓地にしている。ローソクと線香で何度も供養したのになぜか墓地が気になりました。石屋さんから連絡はありませんが、家に帰ってもそろそろ基礎の工事が始まるかもしれない。深夜誰もいない霊園で自分の墓地にだけ灯明をあげるとご先祖が喜ぶかもしれない。そんなことを思いカメラを持たないで深夜10時頃車を出しました。自分の墓地に基礎工事をしているのを見つけました。2個のローソク立てはお骨を入れる場所に置いていましたがご先祖によく見えるように縁石巻き石の上に置いて火を付けました。写真は二日後の土曜日早朝に撮影したものです。ローソクの火で確認したのですが、左右両側にある赤土が出せると考えていた溝を見て50万円が無駄になったと失望しました。石屋さんに案内されて赤土を出したい思いで予算から50万円上乗せして購入した部分がすべてコンクリートで塞いでいるのです。これでは墓石の土台で墓地にフタをするのと同じです。晴れた日には水分を蒸発させて温度を一定に保つという赤土の部分が中央や地面とつながっていないのです。1cmほどへこんでいるので、表面だけ赤土をかけていかにも地面とつながっているように見せるのでしょう。お隣の玉石の下は冷たいコンクリートということです。二日前の深夜に見つけた時はまだコンクリートが軟らかかったので基礎工事はその日実施したと思われます。墓地が気になったのはご先祖のお言葉だったかも知れません。

 下の写真は他の方のお墓の基礎工事です。洋式のお墓のようです。中央はお骨を入れる場所でしょう。これでもかというように墓地全部をコンクリートで固めています。中に入るお骨はいかにも息苦しそうです。

 さっそく契約した石屋さんの担当者に電話で文句を言いました。何のために50万円出したか分からない。50万出せば両側に地中に達する赤土が出せてお骨を納める部分は赤土でつなげることができるというお話でなかったのか。石屋さんの立場はコンクリートを詰めなければ強度に問題が出て傾いたらこちらが保証しなければならないので両側に土を詰めるわけにはいかない。工事をお客に見せなかったのも手落ちだといってくれました。少しぐらい傾いてもいい。大きい墓石を売りたいために墓石が大きすぎるのではないかとも言いました。結局全部を赤土にはできないが両側に一ヶ所づつ穴をあけて工事の一部をやり直すということで落ち着きました。両側のスペースがコンクリートとは説明を受けていなかったのです。

2009年7月11日土曜日

見えないところはゴミだらけ。(地表から20cm下の墓地の中)

 墓地表面の苔を取り除いた後、表面に小さい黒いゴミのようなものが2個見つけました。いずれも指で取り除こうとしてもビクともしなかった。雨上がりの後だったので指で赤土をほじくると、小さい黒いゴミは文字通り氷山の一角でした。写真こそは残していませんが、長さ20cmを超えるようなアスファルトの塊だったのです。ほとんどが墓地の赤土に埋まっておりほんの一部だけが表面に出ていたのです。霊園周囲にアスファルトを使った部分はありません。アスファルトは道路以外の使い道が考えられませんので道路工事の際発生した捨てるべき廃土を墓地に使った可能性が高い。

 そんなことがあり表面は小石などが少なかったのですが、墓地の地下が気になりました。常識的に考えて、もしご先祖の御霊がこの墓地に宿って下さるなら赤土以外の小石やゴミが混ざった状態が居心地がいいとは到底考えられません。契約時に石屋さんにスコップで掘り返して赤土の中のゴミを取りたいといいますと、30cm以上掘るのはやめてくださいとのことでした。理由を聞くとあと二か月で重い墓石を立てるので掘り返して基礎がゆるくなると墓石が傾く恐れがあるとのことでした。墓石が傾くと工事した石屋さんがやり直さなければならない契約になっているそうです。20cm程度ならいいだろうと家庭菜園で使う移植ごてで掘り返してみました。土に湿り気があるので、移植ごてを差し込んでこねると大きな赤土の塊となります。その赤土の塊を両手でもみこんでつぶすと土や砂は細かいので指をすり抜けゴミだけが手に残ります。そうして取り除いたのがこの写真です。ゴミだけでなくご先祖様の御為にできる限りのことはしたという満足感も残りました。  土が付いていてわかりにくいのですがゴミは小石だけでなくコンクリートの小片も多かった。アスファルトとコンクリート、道路工事の廃土の疑いが強まりました。あとは溜まるほど水を混ぜ合わせて土を軟らかくして、ステンレスのヘラで表面を整地しました。
 一週間後来てみると周囲のどの墓地よりきれいでした。雑草が一本もなく日光の加減か自分の墓地が光っているようです。じっと見ていて思い出した光景があります。甲子園常連組の有名な野球部の練習を見に行ったことがあります。その時は招待試合で一人の野球部員もグラウンドで見かけませんでした。誰もいないグランドはチリ一つなく白く光っているようでした。さすがに100人以上の部員が何十年も手入れしたグラウンドだと感心したものでした。墓石がないのに線香立てやろうそく立てで供養した跡があり、丁重に扱っている痕跡のある墓地ならお墓の工事をする方も手荒い工事はしないと期待しています。

2009年7月4日土曜日

あきらめていたのに芽が出ました

郷里に野生の猿が生息している豊かな山があります。標高300m以下には普通の白く実が開くアケビも自生しております。山の頂上付近は熟しても実が開かないムベ と呼んでいる木質の蔓をもったアケビが多かった。 しかし人家から離れた場所にあるアケビの蔓に熟したアケビの実がなっているのは見たことがありません。秋の熟したアケビの実はお猿さんには大変な御馳走で熟する前にすべて食べられてしまいます。それほど野生の猿とアケビの実は縁が深いのです。
渓流釣りをしていた頃大きな山越えをしないと入渓できないヤマメの多そうな渓流を狙っていました。夏のシーズン中はどうしても山越えのけもの道の入り口が分からず秋になって地元の人に聞いて林道から見えにくい入口を見つけたのです。翌春のシーズンに備えて魚影の量の確認とルートの確認のためそのけもの道を上っていました。けもの道から離れた場所にコブシの花のようにぱっくりと開いたアケビの実を見つけました。猿のいる山でどうしてアケビの実があるのだと思って、蔓の巻きついている木に近づくとようやく合点がいきました。30個ほどの熟した実をつけているアケビの蔓は細かい棘が密集したタラの木に巻きついていたのです。猿はこの棘を嫌がったのに違いなくアケビの実を取ろうとすると必ず手足に鋭い棘が刺さる仕組みになっています。タラの木のおかげで30個ほどの実は代わりにいただきました。
2008年2月と2009年2月22日にこの場所5cm程の地中に10cm程の一本の根を植えました。2008年のは夏まで待っても地上に何の変化もありませんでした。枯れたのです。2009年2月22日埋めたのは5月2日に2ヶ月少しでついに地上に芽を出したのです。日本の野山に自生する山菜の王様、民間療法でその根を煎じたのを飲むと血糖値を下げるとかいう植物です。熱帯のグァヴァではありません。タラの根です。

このタラの木は商品袋の能書きによると品種改良して棘のないタラの木だそうです。タラの棘は猿だけでなく私も嫌いです。皮膚に刺さると折れて中に残るからです。直径3cmほどの太さになるには3年ほどかかるそうです。芽が出た以上は山でも育つタラの木のことですから大きなタラの新芽を天ぷらにするのが楽しみです。機会があれば成長の度合いをまた書きます。