2010年1月2日土曜日

両親を苦しめた農道助成金 

小学校に入学前後のころでしょうか、実家は沼田10枚ほどの棚田を所有しています。棚田の上は雑木林と少しの赤松の森があります。現在はすべての赤松が枯れてマツタケはでません。当時は山越えでいかないと棚田にいけませんでしたが政府が農道をつけると工事の助成金が7割下りるという話が持ち上がったのです。米の収穫時水を抜けない沼田はあまりにも手がかかり両親は休耕田としていくばくかの助成金をもらっていました。その頃新しい商売を始めて沼田の棚田に米を植えるような余裕がありませんでした。しかし子や孫の代のために4軒で助成金を受けて軽トラックが通れるような農道をつけることに同意したのです。農道の受益者は4軒です。工事費の7割が政府負担で残り3割を農道の受益者4軒で負担しなければなりませんでした。残り3割といってもかなりの金額だったと聞いています。全員一律の25%というわけでなく3割の負担を巡って4家で何カ月も集会が開かれたのです。集会には寡黙な父に代わって母がでました。
 最初の話し合いの場でM家が我が家に3割の7割負担を提案してきたのです。残りの3家はそれぞれ1割負担でした。当然母とM家の嫁と紛糾して何カ月ももめました。
我が家が7割負担すれば残りの3家は1割負担でいいわけでM家の提案に我が家以外全員賛成でした。どうもM家が集会の前に根回しをしていたそうです。当時我が家は農業で食べていけないので未経験の農家相手の商売を始めていました。当然初めから順調なわけがなくすでに借金がかなりあったと聞いています。結局3家の主張に追いまくられ我が家は7割負担を泣く泣く飲んだのでした。山をブルドーザーで切り開く7割負担など現金であるはずもなく孫子の代のためと借金を重ねたのです。
 そこから子供時代の悲惨な生活が始まりました。自分はそれほど悲惨と思っていませんでした。食べ物に不自由しなかったからです。米と野菜は農家の特権でいくらでも食べられるのです。家計のことに思考が回るほど成長していなかったからでしょう。今から考えてみるとお盆に商売のために買った物資の集金人がやってくると両親が裏口に隠れるのです。学校に着て行く服は母の手縫いでした。父は日本酒が好きでおいしいコメがとれる沼田に再び田植えをしてその米で日本酒を造っていました。(数年続きましたが当然時効で本人は他界しています。)お金で酒を買えなかったのです。サバの煮つけを食べさせられたのもこの頃です。両親の夫婦げんかもこの頃多かったと思う。夕食時には毎夜母からM家の悪口を聞かされました。母は夕食時我が家が分担金をめぐった話し合いでどのように自分が追い詰められその都度M家の嫁からどんなことを言われどんなに惨めな気持ちになったか、また7割分担が当然のことで感謝されなかったかを繰り返し同じことを話した。家のためにせめて4割分担になるよう精一杯頑張ったがどうにもならなかったということでしょう。M家は我が家にとって極悪人でした。
 それから三年後母の親族で都会の遊休地に高速道路が造られたらしく大金持ちになった親族が現れました。我が家の困窮ぶりを憐れんで全部の借金を肩代わりしてくれたのです。両親は金利が付かない借金を数年かけて返済しました。貸した親族は母に貸すと言ったが本当に元金が返ってくると思わなかったそうです。
 親族への借金返済を終えたころからようやく商売で食べていけるようになった頃です。私の高校入学前と思いますが、突然M家が我が家の借金の数倍の借金をしたことが母の耳に入ってきたのです。借金の正確な額と年末に払わなければならない金利まで両親が知っていたのです。田舎のことで融資係の人が漏らしたのですが、もしこれが知れれば好意でしてくれたその方が何らかの罪でM家から訴えられるかも知れませんのでM家の事業について、また我が家の商売について詳しく書けません。M家は3家で共同事業をしていたのですが何かで仲たがいして共同事業から離れて販路の獲得に失敗したのが原因らしいのです。当然母はここぞとばかり近所の友人にM家の悪口を言いふらしたでしょう。「M家の嫁は気ままで我慢が足りない。自分の都合のいいことばかり言いすぎる」などです。夕食の話題はM家の借金の話に変わりました。あの辛酸をなめた苦しい借金生活を決して両親は忘れていませんでした。
 さらに数年後M家は返済のためと焦ったのか設備投資が多額になる農業を始めました。収穫物は高く売れるのですが、失敗すると傷が大きいというものです。出来の良い息子さんが2人大学に在学中だったのも理由でしょう。その多額の借金で投資した設備が台風の被害にあい全壊しました。同じ地区で他にも賭博的な農業をしていた農家が2件ほどありましたが、全壊したのはM家の設備だけでした。運悪く風の道にあったのかも知れません。高額の収穫物で返済するつもりだった借金が減らず利息で増えていったのです。結果的にさらに多額の借金がM家を襲ったのです。母は今度は融資係の人に贈り物までして借金の額と金利担保物件を聞きだしたそうです。
 父が他界する2,3年前M家への融資が担保を上回ったらしい。会社なら破産ですが農業で作った借金で担保の農地を処分されることはないそうです。近所の人はいつM家が夜逃げして都会に出ていくか噂をしていたそうです。当時は健康なら大都会に出れば仕事がいくらでもありました。農家よりずっとましな暮らしができたのです。結局息子さん2人が奨学金で行っていた大学を中退して働いたお金でM家の借金を返済したそうです。我が家が苦しんだ期間は福の神が現れるまで3年でしたがM家は10年以上で金額的には数十倍以上でした。
 M家の隣のK家に御隠居がいました。私が幼いころから顔を合わせると優しい言葉をかけてくれたよい人です。父が他界する10年ほど前、父の弟がK家の御隠居の孫娘を軽トラックで当ててしまったのでした。叔父は病院に連れて行き治療費お見舞い金も出したのですが怪我の場所が顔で小さな傷が残ったのです。後遺症もなく全快しているのですが何分女の子で、K家の御隠居の息子が補償金のことで叔父ともめていたそうです。M家の困窮ぶりを一部始終見てきたK家の御隠居が亡くなる半年前ほど病床の枕元に息子を呼び「〇〇の家ともめるな。あの家は代々自分の欲のために人を困らせたことはないんだ。昔世話になった。もし〇〇の家が困ることがあれば我が家が率先して〇〇の家を助けるんだ。わかったな」と言い置いて亡くなったそうです。K家の御隠居の遺言で叔父の災難は去ったのです。K家の御隠居はM家の困窮ぶりを見てきたはずですが、なぜもめるなと遺言した理由は一切伝わってきませんでした。M家の不運はありそうなケースですが、ありえなさそうなのは守秘義務で守られるはずの融資金額と金利まで伝わってきたことです。融資金額を知っていた方は我が家とM家との関わりなど知らないのです。しかも農道の助成金などその当時から10年近い昔の話です。

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