2010年4月2日金曜日

幼児が発した憶えたての言葉にお年寄りはこだわった

仕事から帰宅した夜は気がつきませんが、朝日が差し込んだ仏壇にお茶を供える時、仏壇の漆の表面にたまったホコリが目立ちます。ホコリを放置すればご先祖様は許してくれないかもしれない。結果加護が少なくなるなどと考えながらウェットティッシュで白く浮き上がったホコリをはいていました。その時、フラッシュバックのように頭の深いところから浮き上がってきたのが「先祖が許さない」という祖母の口癖でした。私の世話をしてくれた祖母は小学校入学前に他界していました。「先祖が許さない」という言葉は同時に3つほどの映像も引っ張ってきたのです。よちよち歩きでオムツがとれない頃の記憶ですので正確性はないのでですが、ストーリーになるよう筋道をつけて書きます。

 祖父の法要の後と思いますが祖母の隠居部屋に父の姉と妹と祖母が集まってお茶を飲んでいました。祖母にしてみれば自分の部屋に産んで育てた二人の娘と久方ぶりに同座したのです。この3人は互いに一番安心できる人とおしゃべりしていたのです。私がいましたが物心ついていない幼児で気兼ねが要りません。たぶん姑の悪口を実母に聞いてもらっていた。その他の愚痴、世間のうわさ話などでしょう。話の節々で祖母が「そんなことは先祖が許さない」と繰り返し言っていたのです。それに対して叔母二人が先祖が許さないと繰り返していました。先祖が許さないとは御先祖が見てくれていずれ都合が悪いことが改善されいくだろう。もう少し辛抱しなさいの意味でしょうか。聞いていた私はなんとなく自分の都合が悪い時、先祖が許さないというのだなと考えてしまった。当時はたぶん大人の会話を全部理解できなかったと思います。伯母と同じように繰り返してすっかり覚えてしまったのです。
 ある晴れた日、家の外に出て500mほどの場所によちよち歩きで大冒険をしたのです。そして道路の少し広い場所に出ました。市町村の道路は補修する時役所が日当を払って周辺の住民を動員します。たいていその道路を使用する住民を選んで工事させれば効率が上がります。道路の少し広い場所では道普請の休憩で数人の30代の大人が座っていました。彼らにすればヨチヨチ歩きの私は格好の生きたおもちゃです。わかっていても家はどこかなど訊いてニタニタ笑いながら服装や歩き方をからかったのでしょう。私の応答がたどたどしいか答えになっていないかゲラゲラ大笑いされました。なんとなく馬鹿にされている。状況として自分の都合が悪いのは理解できたのです。そして「先祖が許さない」と言ってしまったのです。もう一度言ってくれと言われて大きな声で言い返すと大爆笑です。先祖が許さないはオムツがとれない子供がいう言葉でなくギャグのようです。また笑われたので背を向けて実家のほうに帰ると背中から長い間笑い声が途切れなかった。以下は想像です。
 気楽な道普請が終わり帰宅して夕食時「おやじ、今日面白いことがあった。オムツがとれない子供が先祖が許さないと口走ったよ」腰が曲がったようなお爺さん「普請御苦労さん。それは面白い。ワシももう少し若ければその子供に会えたのに。誰でも笑うよ。でどこの子供だ」「○○だ」「何、○○だって本当か」「○○の家から来たしみんなが笑うので帰って行ったよ」「道普請に参加した家はどことどこだ」「XXと△△」御隠居はしばらく考え込んで「これからXXに行ってくる」
 その夜かどうか知りませんが3人ほどの白髪頭のお年寄りがやって来ました。父親と話し込んだ後私が呼ばれた。一人のお年寄りが腰を屈めて私の目を覗き込んで「すまなかった」と言いました。私の郷里ではお年寄りは偉くて尊敬され若い人はその言葉に従うのです。父も丁寧な口調でした。先祖が許さないとは誰の言葉だと訊かれたのでおばあさんと答えた。「意味を知らない子供が真似をした言葉ですから気にしないで下さい」などとお年寄りに説明したのでしょう。その後お年寄りの見守る中、父が仏壇に線香と灯明をあげたのです。お年寄りが帰った後、人前で先祖が許さないと決して言ってはいけないと言われました。孝心が厚い父は祖母には何も言わなかったでしょう。仙人お爺さんとの邂逅はこの後だったようです。仙人お爺さんの記憶のほうがはっきりしているし、足腰がしっかりしていました。私が最初に仙人お爺さんを見つけて、走ったので心配して祖母が「危ない。走るな」後をついてきたと記憶しています。祖母は私の右後ろに立っていました。仙人お爺さんが話していたのはこのことかもしれない。たいていのお年寄りは長年の野良仕事で日焼けしてるのですが、仙人お爺さんは日に焼けていなかった。もしかしたら長期間病床にあったかもしれない。その後見た記憶がないのです。祖母に誰と聞くと「ホウさん」と答えた祖母は仙人と話していた(家の言い伝え)

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